2019年1月から2023年6月10日の合計51回に渡り、ヨハネ伝の学びが掲載されました。今回4年半の学びを終えたセーラにヨハネ伝から想うことをシェアしてもらいます。夫婦のインタビュー形式です。「ヨハネ伝の学び」は当ウエブサイトの上段にあるタブからお読み頂けます。
実:「ヨハネ伝の学び」に取り組んだ背景を教えて下さい。なぜヨハネ伝を取り上げたいと思ったのでしょうか?ご主人も同じく2019年の1月からルカ伝の学びを掲載されています。「あなたはルカでわたしはヨハネね」、と言うことだったのですか?
セーラ:そんな風に考えていませんでした。と言うか、こっちが先に決まっていたような気もしますが。(笑) 丁度「とびら」シリーズを書き終えようとしていた頃、「とびら」が聖書のベーシックを語るものであったので、次はもう一歩進んだもので、イエス様をもっと深く知る為の学びをしたいと思ったのが始まりでした。それにはヨハネの福音書がぴったりだと思ったのです。
実:ヨハネの福音書を読んでみようかな、とかちょっとゆっくり勉強しようかな、と言う方々に対して、ヨハネの福音書を短く紹介するとすればどのように紹介されますか?
セーラ:実際に数えて比べた事はありませんが、他の三つの福音書に比べてヨハネの福音書はイエス様の言葉が一番多く書かれていると聞いているし、本当にそんな印象があります。ヨハネ伝のイエス様のことばの多くから、ひしひしと神様の愛が伝わって来ます。この書を学ぶと神様の愛も分かりやすいし、その後に続く残りの新約聖書もわかりやすくなるのではないかと思います。
実:ヨハネの福音書に描かれているイエスのどんなところがご自身にとって一番インパクトが強いですか?
セーラ:イエス様は、敵対心を持つ人たちからどんなに威圧されても絡んでこられても、冷静に相手を黙らせてしまう答えを返されていましたよね。8章の姦淫の女性の話(8:1〜11)なんかは良い例です。神であられる訳だから当然なんだけど、イエス様のそんなところが威厳に溢れて凄いカッコいいじゃないですか。でもそうかと想うと13章でイエス様は弟子たちの足を洗われました。ペテロが恐縮して遠慮しようものなら、こうしなければ彼とご自身の間には何の関わりもないと言われるのです。この箇所はすごく象徴性があります。もしイエス様がわたしをご自身の血潮で洗って下さらなければ、私はイエス様と何の関係も頂けず、救われるに至らなかったのです。そしてまた、イエス様のしもべとして生きていく中で、主が指摘される事柄が心の中にあって、それらを「洗って」頂かないとイエス様と共に歩めなくなるのです。私が恐縮している場合ではないので、素直にその救いと清めを受け取るしかないのです。
これって自分には凄いインパクトがあります。8章であの様な威厳に溢れておられる同じイエス様が、11章では膝をかがめて弟子たちの足を洗われる。そしてわたしの魂も洗ってくださる訳ですから。
実:ヨハネ伝の中の心に迫る聖句を教えて下さい。どうしてかも教えてもらえますか?
セーラ:もちろん沢山ありますが、この場では一つだけ挙げます。10章の27節です。
「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。」
と言われています。これって確かにそうだなーとしみじみ感じます。例えば、どんなに素晴らしく聞こえる概念に出くわしても、聖書の教えと異なるものであるならば何かがしっくりこなくなって、「これは違う」って分かる事がしばしばあります。または、ちょっと聖書から離れたりすると、どこかに迷い出ているかのごとくイエス様の近くにまた戻りたくなったりします。それって自分が聖書をよく知っているとか信仰が熱いとか言う次元を超えていて、実は自分がイエス様の羊だからであって聖霊が語ってくださるからだって事がとても心に迫り、感謝に溢れます。そして、何より初めて救われた時の事を思います。イエス様の十字架の意味と神様の愛を初めて理解できて、「イエス様の声」つまり聖霊が理解させてくださってイエス様の羊としてくださったんだなと感じさせられる聖句です。
実:ヨハネ伝の学びはどのように現代を生きているクリスチャンやキリスト教に興味のある方にとって大事なのでしょうか?
人間って時代を問わずして、基本的には同じ必要性を持っていると信じています。初代のクリスチャンたちであっても二千年経った現代を生きるクリスチャンでも、神様の愛と罪の赦しを意識して感謝して日々を生きる事が重要ですよね。ヨハネ伝の多くのイエス様のことばからそれらの事柄を感じとる事ができるのではないでしょうか。特に13〜17章の4章分の記録には、三位一体の神の果てしない、驚くほどの愛が映し出されています。特に15章の9節では、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」とイエス様が語られていますが、これって頭に入りきらないほど重大な事で、クリスチャンとしてはいつも心に留める事ができるなら、より神様に近く生きていけるだろうと思います。
言い換えると、これらの事柄が聖書の中心的なメッセージなので、「聖書を学んでみたい」と思う人にもヨハネ伝は、聖書全体が何を伝えようとしているのかが分かり易い書物ではないかと思います。