はじめに

ルカは、7章でイエスの神の愛ーへセドと、それに関わる人々のことを次の6つのセクションにおいて記していると思います。イエスに触れられたものたちは造り変えられたのです。

  1. v1-10  異邦人・ローマ兵士(敵)strong sense of authority and obedience – faith
  2. vv11-17 未亡人で息子を無くした母(死)restore life to both mother and son, life flows from Jesus, not the other way around
  3. vv18-23 バプテスマのヨハネ(イスラエル)confused about Saviour
  4. vv 24-35 世の人々 (世俗)hear what they only want. Means to an end, Jesus plus
  5. Vv36-50シモン(宗教家)religious only sees people as labels
  6. vv36-50 売春婦(罪人)sought mercy, knowing undeserving

今回はバプテスマのヨハネと世の人々がイエスを誰だ、と思っていたかについて考えていきます。二つの鍵となる質問を見て行きます。あなたにとって、わたしにとって、イエス・キリストとは誰なのか、という点を考えて見ましょう。


バプテスマのヨハネ

「おいでになるはずの方は、あなたですか。」

ルカ 7:18-23

18 さて、ヨハネの弟子たちは、これらのことをすべてヨハネに報告した。19 すると、ヨハネは、弟子の中からふたりを呼び寄せて、主のもとに送り、「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか」と言わせた。20 ふたりはみもとに来て言った。「バプテスマのヨハネから遣わされてまいりました。『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか』とヨハネが申しております。」21 ちょうどそのころ、イエスは、多くの人々を病気と苦しみと悪霊からいやし、また多くの盲人を見えるようにされた。22 そして、答えてこう言われた。「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。23 だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」


バプテスマのヨハネはイエスご自身が、「女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。(ルカ7:28)」と語った人物です。ヨハネは自分について、「「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です。」(ヨハネ1:23)というように、来る救い主のために備え、宣告するべき預言者である、と自覚していました。

聖書には、ヨハネが母エリサベツの胎内にいたときに、マリアの胎内のイエスの臨在を感じて飛び跳ねた、と聖書は語ります。「そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。」(ルカ1:39-41)

さらにヨハネが罪の悔い改めの洗礼を人々に授けている際に(そこで「バプテスマの」というニックネームがついたのですね)イエスを見て、「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」と宣言し、「私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ』と言ったのは、この方のことです。」と言ったのです。(ヨハネ 1:29-30)

そのヨハネでさえ、「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか」と尋ねたのです。これは驚きです。

イスラエルを代表する、と言われるヨハネであり、最後の預言者として知られている彼ですら、メシアというのはいよいよ圧政を引くローマ帝国を崩壊させ、人々を解放する、そんな王国の王を思い描いていたのです。

イエスは預言者イザヤの声をこだまさせて、「目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。」と答えたのです。このような救い主の預言がイエスにおいて成就していたからです。

イエスは火で火と闘う、あるいはヘロデ王に匹敵しようとする王ではなかったのです。敵を愛し、その敵のためにも十字架においていのちを投げ出す、そういうメシアなのです。

神の恩寵の愛、へセド、はそのように理解されるべきだったのです。

イエスは、「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」と伝えるように、とヨハネの使者に告げました。それは、自分の現れを宣言する「声」であり、正確に「世の罪を除く子羊」と自分のことを指し示したヨハネが、結局メシアについて思い違いをしていて、トンチンカンな質問をしてきたことに対して腹を立てたり、苛立ったりしたから嫌味を言ったのでは到底ありません。イエスは常に真理を語り、招き、そしてその招きに応じる者に恵みがあるように祈り願っているのです。これもイエスの「へセド」の行動なのです。


群衆

「何を見に行ったのですか?」

ルカ 7:24-35 参照 マタイ 11:7-19

24 ヨハネの使いが帰ってから、イエスは群集に、ヨハネについて話しだされた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。25 でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。きらびやかな着物を着て、ぜいたくに暮らしている人たちなら宮殿にいます。26 でなかったら、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。

27 その人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。28 あなたがたに言いますが、女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。

29 ヨハネの教えを聞いたすべての民は、取税人たちさえ、ヨハネのバプテスマを受けて、神の正しいことを認めたのです。30 これに反して、パリサイ人、律法の専門家たちは、彼らからバプテスマを受けないで、神の自分たちに対するみこころを拒みました。

(マタイによる福音書では、この後、「あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。耳のある者は聞きなさい。」と付け加えられています。(マタイ 11:14-15)

31 では、この時代の人々は、何にたとえたらよいでしょう。何に似ているでしょう。32 市場にすわって、互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ています。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、泣かなかった。』33 というわけは、バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、『あれは悪霊につかれている』とあなたがたは言うし、34 人の子が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言うのです。35 だが、知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。」


風に揺れる葦

当時、「風に揺れる葦」という表現を聞いた者たちはすぐにピン、と来たことでしょう。それはヘロデ・アンティパスのシンボルだったからです。当時の硬貨によく使われていたのが、ガリラヤ湖に見られる葦だったのです。ヘロデの権勢のシンボルだったのです。「何を見に行ったのか?葦か?」というのは、イエスが、「あなた方が期待して探し求めていたのは、ヘロデのように王権を振るう、新しい王だったのか?」と問いかけているのです。 (N.T. Wright) 


バプテスマのヨハネについての預言

イエスは、バプテスマのヨハネのことを旧約聖書マラキ書3:1から引用し、「見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。」と書かれているまさにその人物だ、と語るのです。

「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている」と万軍の主は仰せられる。」

マラキ3:1

ヨハネは宮を清め、主の到来の備えをする役割があるのです。マラキ書を読むと、間違いなくヨハネがその到来の準備をしていた方は万軍の主、イスラエルの主なる神ご自身であると理解出来ます。言い換えれば、イエスはご自身のことをこのヨハネが備えをしてくれた「主なる神」である、と語っているのです。


この時代の人

イエスは引き続きたとえを使って群衆に、民の心の状態を語っています。これは現代人にも当てはまるでしょう。イエスを自分の希望する人物・期待にそうかどうかによって判断するからです。イエスが本当にどんなお方であるか、と探求することをせず、「厳しすぎるね」とか「甘すぎるよ」あるいは、「知的じゃないね」とか「カジュアルすぎるんじゃない」などとイエスを批判して拒絶するのです。しかし、聖書は語ります。「知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。」マタイ伝では「知恵の正しいことは、その行いが証明します。」と宣告します。本当に大事なのは「評判」や「意見」ではなく、実際の本質にある、というのです。(N.T. Wright) 

Eugene Peterson  の The Message 訳では、この35節を次のように翻訳しています。風評ではなく実質を理解し吟味するべきです。

“Opinion polls don’t count for much, do they? The proof of the pudding is in the eating.” 「世論調査はあんまりあてになりませんね。プディングケーキは食べてみないと分からないんですから。(論より証拠)」

ルカ 7:35, The Message 日本語は筆者抄訳

小さき者

同じ場面について、マタイによる福音書では、「あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。耳のある者は聞きなさい。」という一節が含まれています。イエスの願いが込められている言葉です。神の御言葉に精通していたはずの者たちが結局神の思いにかなわない自己中心な生き方をしているのをどんなにか悲しんでいたことでしょう。バプテスマのヨハネの悔い改めの説教に対し、心を開き、受け入れたのは聖書学者や律法学者ではありませんでした。宗教的に高い地位にいたものたちに拒絶されていた「罪人」や社会周辺に追いやられていたものたちだったのです。

イエスの「敵を愛せよ」という言葉を聞き、生まれて初めて自分が「敵」だったのに、神は全てをかけて自分を愛してくれている、と心で受けとめたのはやはり、これらの「小さきもの」たちだったのでしょう。その「小さき者」がなんと神の御国ではバプテスマのヨハネよりも優れているのだ、とイエスは語ってくれているのです。


次回はまさにその「小さきもの」の代表と、宗教家の代表である二人に焦点を合わせていきます。