さてこの箇所は、宗教指導者たちがベタニアと言う地にエルサレムからやって来るところから始まります。彼らは、ベタニアで人々に神の前で罪を悔い改める様に呼びかけ、川で洗礼を授けているバプテスマのヨハネの正体を突き止めようとしていました。当時のイスラエルでは、旧約の時代から神が送ってくださると約束されていたキリスト(救い主)を待っている状態でした。* (そんな中で自称キリストや自称リーダーたちが謀反を起こす事件も度々あった様です。(使徒5:36-37) それを考えると、バプテスマのヨハネの噂に宗教指導者たちが、この様に対応したのも無理はなかった事でしょう。
*申命記18:15、イザヤ9:6-7、ミカ書5:2 等 (とびら⑮ 「なぜイスラエル?」その1」)
「あなたはどなたですか。」と尋ねた彼らが本当に知りたかった事にヨハネが直接答えます。「私はキリストではありません。」...彼らは内心、がっかりしたでしょうか? それともホッとしたでしょうか? その次には「エリヤですか?」「あの預言者ですか?」と問われますが、ヨハネは否みます。
エリヤ
旧約聖書の中で偉大な預言者として知られている「エリヤ」と言う人物がいました。彼は死なずして、そのまま天に引き上げられていくと言う去り方をした記事をⅡ列王記の2章で読む事ができます。旧約聖書の中では、エリヤが再び戻ってきて人々を神に導くと預言されています*。 なので、人々はキリストの他にエリヤが来ることをも知らされていました。しかし、ヨハネはエリヤである事も否定しています。これに関しては11章でもっと詳しく勉強します。
*マラキ書4:5
あの預言者
ここに出て来る、「あの預言者」はおそらく、申命記18:15に出て来る「預言者」を指しているのだろうと考えられています。 この申命記の箇所も現代振り返れば、キリストを指している事がわかるのですが*、昔はきっとキリストとは別の預言者も現れるのではと言う考えもあったと思われます。
*申命記18:15、使徒3:22
話は進んで、「それなら、一体誰ですか?」と言う様な彼らの問いに、ヨハネは答えます。「私は、預言者イザヤが言ったように{主の道を真っ直ぐにせよ。}と荒野で叫んでいる者の声です。」 確かに、バプテスマのヨハネに関しては、キリストの先駆者として現れる人物として、その何百年も前に「イザヤ」と言う預言者によって預言されています。* ヨハネは自分が正しくその人物である事とその使命をしっかりと自覚して生きて来ていたと考えられます。**
*イザヤ書40:3、マラキ3:1
**ルカ1:15-17、41
さて、次にくる彼らの問いに何か疑惑を感じないでしょうか?「キリストでもなく、エリヤでもなく、またあの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか?」 「荒野で叫ぶ者」に関しても、預言者イザヤによってのれっきとした預言があった事は、この宗教指導者たちもさすがに知らなかった訳はないでしょう。 しかし、その「叫ぶ者」には洗礼を授ける権限はないと判断していたのでしょうか? それともヨハネがその人物だと信じなかったのでしょうか? あるいはやはり...福音書の大半で明らかになっている様に、当時の宗教指導者の多くは(特に中心核の人達は)、「叫ぶ者」のすぐ後に来る事になっていたキリストの現れを本気で待っていた訳ではなかった事が、ここの時点ですでに見えて来ているのでしょうか?
そもそも、「バプテスマ/洗礼」由来は何なのかについて次回でもっと触れますが、ヨハネの答えを見てみましょう。
「わたしは水でバプテスマを授けているが、あなた方の中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。 その方は私の後から来られる方で、私はその方の靴ひもを解く値うちもありません。」
ここで、聞こえてくる事は、「自分がしている事は水を使って一人一人が罪を悔い改める気持ちを明かす儀式をしているまでである。しかし、自分(叫ぶ声)の後に来られる事になっている偉大な方、すなわちキリストは既にこの世界に来ておられる。」と言う風に要約できます。
適用:
ヨハネは、イザヤが預言した通り、「主の道を真っ直ぐにせよ。」と言うメッセージを語っていました。それは、一人一人にどの様な意味があるのでしょうか? まだクリスチャンでないなら、イエスキリストを自身の救い主、自身の神として迎え入れる事に何が邪魔になっているでしょうか? もしクリスチャンであるなら、主とのもっと深い交わりを持つ事に、又は次の一歩を従う事に邪魔になっている事柄はあるでしょうか? 「主の道」が真っ直ぐになると言う事はこれらが取り除かれる事なのです。その障害になっている事がらを除きたいと言う気持ちがあれば、聖霊が助けてくださるように祈る事ができ、神様は必ずそれに答えて下さるお方です。