あなたはどんな時に喜びますか? お母さんに褒められた時?試験に合格した時?試合に勝った時?結婚した時?子供が生まれた時?仕事が上手く行った時?
様々な人生の場面で喜びが溢れることがありますね。 でも、いつも喜びを感じていて、常に喜びを持続出来るわけではありません。元気のでる、喜びをもたらしてくれる出来事もあまり頻繁に起きないかもしれません。それどころか、喜べないことが日常には多く起きているのではありませんか。悲しみや喪失感、苦しみや疎外感など、気持ちが塞ぐこともあります。
今カナダではホッケーやバスケットボールのプレーオフの最中です。自分の応援しているチームの試合の結果次第で一喜一憂する人も多いですよ。私は自分の応援するチームは最初からプレーオフにすら出れなかったんです。野球のチーム、特に日本人の活躍するチームの動向は気になります。勝てばうれしいですし、負けると悔しいですね。感情の「ジェットコースター」なんて言う表現もよく聞かれます。
私達の感情には起伏があります。
旧約聖書の詩篇を読むとやはり感情の起伏が正直に表現されている「歌」がおおいなぁと思います。心の歌なんですね。試しに聖書ソフトで単純に ”joy(喜び)” とか ”joyful” という単語を検索すると、詩篇には合計58件ヒットがありました。 さらに同じ詩篇を、「打ちひしがれた、泣き叫び、すすり泣き、涙、孤独」と言うような単語で検索すると、合計49件ほどありました。詩篇にはいろんな感情がごちゃ混ぜになっているように見えます。
最近「想うこと」コーナーで紹介したところでは、こんな詩篇があります。
私の心はすばらしいことばでわき立っている。(詩篇45篇1節)
わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私の前で思い乱れているのか。(詩篇42篇11節、43篇5節)
でも、単なる感情の吐露と違う点があると思います。詩篇の歌の根底にある、というか、底にしっかりと流れているのは、歌い手と「主なる神」との関係なんです。
周囲の出来事や人たちからの影響もさることながら、実は神様との関係が充実しているかどうかが自分たちの感情や情緒、たましいとも言えると思いますが、それに対して一番大きい影響力があると思います。
なぜなら神様は私たちをその似姿に造られ、交わりを持てるように計画されたからです。ですから、交わりがあると充足感、安心感、言葉に表せないような喜びがあるのです。神様から切り離されていればどんなに素晴らしい体験や人との関係があってもそれは常に不安、不信、孤独、苛まれる心と裏腹で、心から喜べないのです。
詩篇51篇で、作者ダビデはこう神様に呼び求めています。ダビデは一世一代のしくじりをしました。彼は神から切り離された、関係が断絶した、と感じたのです。自分の犯した罪と、その挙句に重ねた罪、そしてその結果を味わっていたのです。彼は神にこう祈り求めたんです。
詩篇51篇10〜13節
神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。
私達も程度の差こそあれ、信仰の道を歩んでいる時に、神様が見えなくなり、心が苛まれたり荒れたり、喜びを失います。喜びを取り戻すにはダビデのようにいつも祈り求めることが大事です。
ティム・ケラー師はこの箇所を引いて、こう勧めています。(April 20, The Song of Jesus)
「「あなたの救いの喜びを私に返して下さい。」という祈りは、私たちも頻繁に祈るべき祈りなんです。」
ケラー師は続けて、こう祈りましょう、と導いてくれます。
「主よ、失望や喪失感から心が落ち込んでしまうのはいやなんです。でも辛いんです。どうかあなたの御霊を送って下さり、私の心に向かって、語ってください。これまでも、この後も、あなたは驚くべき善きことや栄光で私の人生を満たして下さるのだ、と。」