お知らせ
このブログシリーズは、リージェントカレッジのリフレームコース及び、CA Church で開催された文化と信仰のコースを基にして作成した日本語でのバイブルスタディーを基盤にしています。リージェントカレッジのリフレームコースの本編の紹介、ストリーミング及びダウンロード出来るビデオコースはこのリンクからアクセスしてください。
コロサイ書 1:16-20
なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。
クリスチャンとして生きる上で何が最も大変でしょうか。
ビデオ1 これまでの流れ ~ 喜びに満ちた生き方
このコースを通して、世の中を新しい観点から見ることが出来るようになった、というだけでは十分ではありません。 リフレームされた生き方は、深い、持続する喜びがあるのがその特徴なのです。リフレームされて福音が信仰を強め、毎日の生活に喜びをもたらすのです。キリストの福音が私たちを解放し、働くこと、休むこと、生活を豊かにしてくれます。
エマオの道(ルカ 24:13-34)~ さらに進む
エマオの道に戻ってきました。弟子たちは、イエスの目が見えていない、と考えたのですが、実際は弟子たちのほうがものが見えていなかったのです。私たちもイエスに出会い、自分の目が開かれねばならないのです。 これがリフレームの本質です。自分のストーリーは自分の世界のものという考えがイエスによってリフレームされると、自分のストーリーは神様の大きなストーリーの中にあることが分かります。神様のこの世界におけるはたらきを大きなストーリーの中で捉えることによって、日々の私たちの生活がその神様のストーリーと密接につながるのです。
エマオの道のストーリーでは、イエスの方から弟子たちに近づいた、というのは注意するべき点です。失われたたましいを探し求めるのがイエスですから。自分はさまよっていないと誤解していようと、あるいは混乱と錯誤の中で苦しんでいようと、イエスはあなたのところに、その状況のただ中に現れてくださるのです。
エマオの道で、イエスは弟子たちに聖書が自分についてどう書いているかを説明したのです。すると弟子たちの心が燃えた、とあります。それでもまだ彼らの目は開かれていませんでした。ついに食事の時にイエス様のことが分かったのです。弟子たちの反応はどうだったでしょうか?喜びと賛美でした。すぐに仲間の弟子たちに伝えたくなって、10キロ離れたエルサレムに向かってエマオの道を後戻りしたのでした。エルサレムへの道は上り坂でしたが。苦になりません。とても興奮していたことでしょう。
想像してみましょう。イエスは今も私たちに神様のストーリーを語って下さっています。そして、弟子達の目を開けたように、私達の目も開いてくださいます。イエスはどんな心持ちで接してくれるのでしょうか? その心の様子が少しわかるのは、ルカ 22:15です。熱心をもって熱心に、ということです。 またヨハネ17:13では、イエスの願いは弟子たちがイエスにある完全なる喜びを受けることだとあります。完全な喜びは、贖いがイエスご自身の死と復活によってもたらされるのはただただイエスによることを知って、人間として本来の姿を見出すことなのです。
キリスト教では、常に働きの前に存在がありきです。私たちがイエスを知り、愛され、贖われ、回復され、イエスに属している、と分かって初めて、この世でどう生きるべきか道が示されるのです。クレオパ達はこの知らせをエルサレムに伝えに走ったのです。喜びに満たされて。
やがて、神様の臨在が彼ら一人一人を満たすことになりました。聖霊がこの世における使節となるべく私たちを力づけ、イエスをこの世に伝える役を私たちに授けるのです。
狭き道
マタイ 7:13-14でイエスは私たちは狭き門から入るように説いています。なぜなら広い門は破滅に繋がるからです。 時に、わたしたちはこの教えは世界から隔絶して生きるべきだ、と誤解してしまいがちですがそうではありません。ハワードスキナー師は、「狭い門を行く、というのは実は広い道のはじではなく、まさしく広い道の真ん中にあるのです。」と言います。
皆と進む方向が逆、ということなんです。山上の垂訓は私たちに山にこもり修道僧になれ、と言っているのではありません。しかし、文化に対抗するべきである、と言います。イエスが導く道はこの世のぐちゃぐちゃしたことに立ち向かうことになります。この世に存在するが、この世の仕組みには属さないことなんです。いのちに進む道を行くのです。
鍛錬とがんばることの違い
クリスチャンライフがあまりに重荷になっているクリスチャンは多く見受けられます。まるでイエスは重労働をさせようとして、私たちを贖ったかのように思えるくらいです。しかしこの考え方で行くと、頑張れば頑張るほど私たちの存在価値が高い、という考え方になってしまいます。苦役をこなせばもっと愛されるんだ、と勘違いしてしまいます。神様からも、教会からも、また自分の心からも称賛を得られる、と思うようになるのです。もちろんそうじゃない、と心の奥深くでは分かっているでしょう。恵みによって救われ、生かされているんだと。でも神学を頭で理解していても心にまで届かなければ、知らず知らずのうちに、本来の福音とは違う生き様になることもあるのです。
例えば、もしイエスが私の人生に苦労とストレスばかりもたらしているような生き方を間近に見ている私の子供たちは、イエスを求めたりはしません。この世もそんな私の生き様を見て、イエスが困難の元凶であると思えばイエスを求めたいとは思いません。私の人生が解放されているように見えているでしょうか。喜びと平安が人生を通して明らかでしょうか。
気を付けてください。これは、またもう一つやるべきこと。。つまりもっと喜ばねば。。。という課題をリストに追加しようというのではありません。
必要なのは困難に直面しても、ゆるがない喜びを持つことなのです。主のご臨在を喜びにするには彼の助けが必要です。あらゆることにおいてイエスを見出せれば、つまり、イエスが私たちを常に取り囲んでいると分かっていることは、どんな状況に直面しても喜びが存在するのです。そんな方を見たことがあるでしょうね。あなたもそんな体験があるでしょうか?
ビデオ2
神様の愛を得るために頑張れ、とは導かれていません。人生全般においてイエス様の喜びを見出すことなのです。彼はいつもともにおられます。夕食の支度の最中、聖書を読む時、
オムツをかえたり、試験を受けたり、通勤通学の際に、イエスはともにおられるのです。
贖いの行い、というのは広い範囲の行いを指します。店員がにっこりとしてくれたり、というのも贖いの行為ではないでしょうか。もしかしたら、あなたへのほほえみがその日の唯一の微笑だったかもしれません。あなたにはそれが必要だったのです。普通の人と人との関りの中で神様がくれるギフトなんです。シンプルなことも神様の贖いの行為であり、神様への礼拝の行為ともなり得ます。 これが心に届くと間違いなく人生は変わります。
神様が人類堕落の結果・影響であることを覆すわざをすること、それがすなわちあがないの行為である、と名付けましょう。今日は、聖霊がその働きを続けています。私たちの周りの文化、創造物に影響を与えるならば、神様の力によって私たちが力づけられた贖いの行為、と言えます。それは素晴らしい神様からの召しの導きであり、特権でもあります。最終的な新天地に向けて進む贖いのわざの一端を担っているのですから。
ビデオ3
自分たちの力で生きようとしてはいけません。イエスは弟子たちに、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5)」とおっしゃいました。聖霊が臨在し、その力によって、神様のストーリーに足を踏み入れることが出来るのです。
考えてみてください:私たちは聖霊の臨在と力に頼るべきですが、私たちは日々の生活において、何を実践すれば、クリスチャンとして歩む支えになるでしょうか。ビデオでは、安息日を守れ、と語っていますが、それは何でしょうか?必要ですか?何をすれば良いのでしょうか?
救いの喜び
それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。 そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。 彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。
ルカの福音書24:50-53
イエスはおびえて隠れていた弟子たちの集団を彼の力に満ちた臨在で満たし、彼の使節となるよう造り変えられました。彼らは喜びと確信に満ちていました。私たちの歩みが、いのちを与える神様のストーリーと足並みが揃うとき、神様の深い喜びと願いが成就していくのです。エマオの道でイエス様もそんな風に感じていたでしょうか。神様が私たちのリフレームを行い喜びを与えてくれているのであれば、今日この時も神様の深い喜びと願いが成就されていっています。
ビデオ4
リフレームを通してあなたのクリスチャンライフがどう影響され、何が変わったでしょうか?