キリスト教の暦では、11月28日日曜日から待降節という時期に入ります。クリスマス四週間前からたいてい始まり、さまざまな教会では毎週一つづつキャンドルに火を灯したりします。キリストの生誕を待ち望む姿勢を持っていく時期です。

この時期クリスマスキャロルやクリスマスにまつわる礼拝音楽が沢山流れます。良く知られているのが、「Joy to the world! 讃美歌では「もろびとこぞりて」や聖歌「民みな喜べ」として日本語でも歌われている曲です。

今日はこの「喜び・JOY」について想わされたことについてシェアします。

Eugene Peterson のデボーションんで、「あなたは、どんな時に喜びを感じますか?」という問いかけがありました。喜びって、つまり楽しい時の感情?何か良いことが起きた時?ハッピーになることと同じ?嬉しいのと喜びって同じ?

「喜び」と聖書が語る時、上にあげたような気持ち、思い、そして感情も全て含むでしょうが、喜びはそれ以上のものだと思います。なぜそうかというと、イエスが「喜び」という言葉を使うとき、必ずしも楽しかったり、嬉しかったりすることが原因で喜びを持ったり、語ったりしていないからです。

わたしの喜び

イエスは十字架の刑にかかるすぐ前の過越の祭りで弟子達と食事を共にしました。その中で、こう弟子たちに語りました。私たちの喜びが満たされるのは、イエスの喜びが私たちのうちにあるからだ、というのです。

「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」

ヨハネ15:11

今日私たちが体験できる喜びは、イエスの喜びが私たちのうちにあるからです。「これらのこと」とイエスが言及しているのは、ヨハネの福音書のこの言葉の前に書かれていることです。これは重要です。イエスはこの言葉を語る直前に、私に繋がっていなければ役に立たない、と語り、その直後には私がこれから十字架にかかってあなた方のために命を投げ出すのだ、そしてあなた方も同じようにするのだ、それが愛し合う、ということだ、と語るのです。そしてそうやって愛し合うことは一つの選択肢ではなく、命令だ、とイエスは弟子に語りました。

コミュニティーの中での喜び

クリスチャンの人生は一人ひとりが徳を高めて精進して行く人生ではありません。神様によって日々造りかえられた者たちが、超自然的な方法で ー聖霊の働きでー お互いがお互いを築き上げ、イエスキリストというかしらに従い生きていくコミュニティーベースの生き方だと思います。もちろん信仰は自分と神様との間のことですが、常に周りの人々の祈りと導きによって発見され、培われ、養われて強められていると思います。

イエスが、イエスが私たちをその十字架の死に至るまで愛してくれたように、お互いに愛し合うことで喜びをイエスにもたらし、その喜びが私たちのものとなる、というのは驚きです。人間的に努力するのでは到底不可能です。イエスはその後、約束された聖霊について教えを説きます。聖霊が私たちにイエスの愛を示し、行動に移す勇気を与え、神の不思議な力によって人々が救いに導かれるのです。神の深遠なる贖いのストーリーが紐解かれていきます。そうして、私たちの喜びは満たされるのです。

このクリスマスの時期、あたりを見回して見ませんか?イエスの語るような愛を分かち合えるチャンスが無いでしょうか?使徒パウロはピリピ人への手紙でこんなふうに書いています。

「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」

ピリピ 2:1-3

パウロはみんな仲良くしてね!そしたら僕は嬉しいよ、と言っているのではありません。キリストの愛と聖霊の働きがあるなら、イエスの喜びがパウロに与えられるとすれば、それはピリピの信者たちがイエスの愛と聖霊の導きによってお互いをイエスが命令した愛で愛し合うことを実践することにある、と言っているのです。

良いクリスマスをお迎えください!