読む前の要点:

  • 「祈る」とは、あなたにどんな意味がありますか?
  • クリスチャンの祈りは何が独特だと言えますか?
  • 頻繁に祈る場合とあまり祈らない場合では、そのクリスチャンにどんな影響があると思いますか?

握らされた鍵

お祈りメール

「お祈りメール」と言う、あまり好かれない言葉がありますね。面接を終えた企業からの不採用通知として知られる「お祈りメール」は文字通りメールで届きます。典型的な末文としては、「末筆ながら、貴殿(又は貴女)の今後のご健勝とご活躍をお祈りしています。」と言った結びの言葉から名づけられたのでしょう。想像出来ますか、企業の重役が不採用にした人の為に神に祈っている姿を? 普通はそう言う事ではないでしょう。しかし、こう言った文章は、そのメールのトーンを和らげる為に一般に使われています。

こんな感じで、「祈る」と言う言葉は、「願う」の同意語の様に使われている事が多くある様です。例えば他にも、「合格を祈っています。」「回復を祈ります。」「ご成功を祈ります。」と言った表現は真心を表すものですが、多くの場合は文面上の挨拶であって、実際に祈っている訳ではないと推測できます。

「祈る」とは

言うまでもなく、本当の意味での「祈る」とは、単に物事を願うだけではなく、人が実際その場に臨在しておられる神に向かって語りかける事です。イエスキリストを知る前でも、手探りで真の神を求める時、人は漠然とした神と言う存在に向かって祈ります。また一方、神の存在を信じないと宣言する人でも、危機が迫ると神にSOSを送ると言う話は度々あります。人が本能的に神の存在を知っているのは、やはり神に似せて創られている事と何か関係があるのかも知れません*。声に出して祈っても心で祈っても神は真心からの祈りに耳を傾けて下さいます。

*創世記1:26-27

クリスチャンの祈りが、世の中で一般に意味される「祈り」から区別される点は、誰に向かって祈っているかです。クリスチャンは、信仰に基づいて、個人的に出会った真の神に向かって祈ります。そのお方は天地万物を創った創造主であり、三位一体の神であり、その人の魂の救い主なのです。その祈りは、その人の心と交わる聖霊の助けで*、御子イエスキリストを通して**父なる神に祈ると言う具体的に三位一体の神が関わる、特定の形を持っています。

*ローマ8:26、第一コリント12:3、**ヨハネの福音書14:6
育まれる親密さ

この様な祈りは、神と人との関係を親密にします。一つの例えで、ある父親の話をします。彼には二人の息子が居たとします。一人は困った時に頼る以外は自分のやりたい放題で殆ど父親との会話がありません。もう一人は全く反対で色々な考えや心の内を普段から父と語り合います。さて、父にとってはこの二人ともが愛する大切な息子達である事には変わりません。しかし、わが子の人間性の成長に応じて、父が自分の考えや心の内を明かす様になっていくのは、普段から色々と語り合っている方の息子に違いないでしょう*。健全な親子関係は親と子の愛のある日々の会話や行動などによって育まれるものです。

祈る事がおっくうになる理由

それと似ていて、神に平等に愛されているクリスチャン達の間でも、神との間の親密さに個人差が生じてくるのは、普段から神との触れ合いをどれだけ持つているかが異っているからだと言えるでしょう。しかし、祈りの中で神と通じ合うと言う特権が与えられていても、気をつけなければ、祈りを義務の様に感じてしまう事もありますね。その訳は、人間には元来から、神から独立しようとする傾向が常にあるからです。クリスチャンになってもこの性質はこの世に生きている間はずっと絡み付きます*。ふと気がつくと祈る事を忘れて神の心を探ろうとせず、自分の人生を自分一人で操作する心で「独立宣言」をしてしまっている。この傾向は多かれ少なかれ誰にもあるものです。 神が、その人を離れる事はなくても**、祈らない事によって人の心が神から離れてしまいます。

それでも、人がその距離感を縮めようとして再び神に近づこうとする時、神の方からもその人に近づいてくださると聖書は約束しています***。聖霊が人の心に働く時、人を神に対して敏感にしてくださいます。それによって神の素晴らしさをもう少し経験した人は神を一層愛する事ができ、もっと神を求めると言う形で神との距離が近くなって行く事でしょう。

*ローマ書7:22-25  ** ヘブル13:5 ***ヤコブの手紙4:8
祈りが叶えられない時

ところで、祈っていても自分の願いが叶えられない時はどう受け止めればいいのでしょうか?確かに、祈れば必ず自身の願いが叶う保証はなく、答えが見えず、神が本当に聞いているかを疑ってしまう時もあるでしょう。祈る時、人は自分の周りのあらゆる境遇に関する願いを、全ての最善を知っておられる神に委ねて信頼する事が要求されています。 こう言った祈りに加えて、神から聞く事(殆どの場合は聖書を通して)や神に従う事が伴う事が重要です。これらの三つの事柄が組みこまれた生活は、その人の魂に神との深い交わりをもたらし、その人生に意味や目的を与え、その人の可能性を広げていく事ができるのです*。

*エペソ3:20

その様な生き方は、主イエスがその人自身の手の中に握らせて下さった鍵*であるように想像する事ができます。どの様な境遇に置かれていても、人は神を愛し、その「鍵を使って」神の計画を歩む時、豊かな実を生らし、多くの重い扉を開けて行く事になります。その生き方はその人の魂に喜びと生き甲斐を与えるのです。**

*マタイ16:19  **ヨハネの福音書10:10

「わたしは、あなたに天の御国の鍵をあげます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」

マタイの福音書16:19

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