「イエスは誰か?」神の御国の姿において

  • 神の御国の姿 (46-48)
  • 神の御国の立ち行き方 (49-50)

46 さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。47 しかしイエスは、彼らの心の中の考えを知っておられて、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせ、48 彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」49 ヨハネが答えて言った。「先生。私たちは、先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、やめさせました。私たちの仲間ではないので、やめさせたのです。」50 しかしイエスは、彼らに言われた。「やめさせることはありません。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方です。」

ルカ 9:46-50

新しいエクソダス

これまでの学びの中で、イエスは「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。」と弟子に語りました。これはエルサレムは出立する時が近くなっていることを表していました。エルサレムで過越の祭りを祝う恒例の旅とは違い、今回の旅路はイエスの十字架への道のりになります。山上で語られていた「最期」へ向かう道です。この「最期」は「最後」ではなく、新しいエクソダス、つまり、NTライトの言う、「イエスは神の民全てを罪と死の奴隷から解き放ち、約束された相続のうちへと導いてくださる」最期なのです。


出発前チェックリスト

私は高いところが苦手なので、飛行機に乗るのも嫌いなのですが、そんなくせにユーチューブではパイロットの操縦風景のビデオが大好きです。多分彼らが何をしているか分かれば飛行機の座席に座っていても安心だからかも知れません。操縦の様子を捉えたビデオの中で最初は不思議に思えたことで、後に、ああそうか、と分かったパイロット達の行動があります。それがチェックリストです。もう何十年も操縦しているベテランで飛行術には精通しているにもかかわらず、パイロットたちはあらかじめ用意されているチェックリストを読み上げ、一つ一つのステップを確認しているのです。

小学生からボーイスカウトだったのでよくキャンプなどに行きました。リュックを準備するとき、備品を揃える時には必ずチェックリストを利用しました。そのせいか、今も仕事場でも、バケーションでも、チェックリストは欠かせない存在になっています。

さて、弟子達のチェックリストはここでは2つありました。神の御国の姿についてのチェックリスト、そして、神の御国の立ち行き方です。


神の御国の姿 (vv46-48)

一つは神の御国は誰の者でどんな姿なのかという点についてのチェックです。弟子達は、もしかしたら誰が山上の変貌に同行するように選ばれたのか、とか、誰が一番イエスの教えを忠実に守っているか、など、具体的には書かれていませんが、結構激しく「誰が一番偉いか」と言い争ったようです。そんな弟子達は滑稽に見えるかも知れません。しかし、私たちの心の中にも、似たような思いが起きて来ないでしょうか?例えば「私がこんなに祈り求めているのに与えられないなんて」「僕はあの人よりはましだ」「彼の行動はまだまだ信者として未熟だ」などという思いです。イエスのチェックリストには、一番小さな「子ども」をイエスの名において受け入れているか、というチェック項目があります。そして、神の御国では一番身の低いものが一番大事なものとされる、というチェックリストなのです。神の御国は逆転した世界です。これからも弟子達は様々な場面で「偉い」人々と遭遇することになります。イエスの教えのチェックリストを心に留めておき、折ごとに思い返したことも多かったのではないでしょうか。私たちも、同様に、神の御国は決してエリート専用のものではないと心に留めるべきでしょう。


神の御国の立ち行き方 (vv49-50)

もう一つのチエックリストは、神の御国がどのように広がるか、立ち行くかです。NTライトはこう語ります。

「神の御国は、弟子達のグループの中からだけでなく、様々な人を通して広がって行くことがあります。常に決まった形で進むとは限らないのです。God’s kingdom may be going forward through people they don’t  know, who aren’t part of their group. Things are not always straightforward.」

イエスは決まった「プログラム」や自己啓発ステップを推奨している方ではありません。人間や文化がさまざまであるように、福音が広がり、繁栄するのは定められた人々だけを通して行われるものではありません。神の御国は、信仰のベテランのための、信仰のベテランによる、信仰のベテランのものではありません。ユージーン・ピーターソン訳のメッセージ版聖書の、ルカによる福音書の導入の説明文にはこのように書かれています。日本語は私の抄訳で、先生の原文は英語で記載しました。(当 日本語 Bible Study のブログでも紹介しました。こちらを参照してください。)

イエスは宗教をクラブだなどと認めていませんでした。ルカが書き綴って行ったのは、それまで人生を外側から中を覗き込むだけしか出来ず内側に入る希望が持てなかった者たちが、(そんな気持ちに誰しもなりますね)今や入り口が大きく開いているのに気づくのです。神様はイエスにあってそんな者達全てを歓迎しているのが明らかになったのです。He will not countenance religion as a club. As Luke tells the story, all of us who have found ourselves on the outside looking in on life with no hope of gaining entrance (and who of us hasn’t felt it?) now find the doors wide open, found and welcomed by God in Jesus. 

Introduction to Luke, The Message Bible, Eugene Peterson

イエスのチェックリスト項目には、イエスを宣言している弟子達に味方しているかどうか、だけがあったのです。弟子達の仲間かどうかの項目はありません。私たちも現代の教会や信仰の活動において、残念ながら自分たちと仲間でなければ素直に布教のわざを喜べない、という気持ちが起きるかも知れません。イエスは、キリストが述べ伝えられているかどうかが鍵だというのです。使徒パウロもイエスのこの思いに沿った発言をしています。

「さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、 また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。 人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。 一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福音を弁証するために立てられていることを認めていますが、 他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。 すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。」

ピリピ 1:12-18

残念ながら、弟子達はこれからも、チェックリストで確認したはずの事柄において失敗したり、力不足だったりが続きます。いよいよイエスと弟子達一行はエルサレムへ旅立ちました。カペナウムという宣教の本拠地を後にして、ペテロや弟子達にとっての故郷を後にしてイエスと歩む最後の旅路がスタートします。