1 ある安息日に、食事をしようとして、パリサイ派のある指導者の家に入られたとき、みんながじっとイエスを見つめていた。2 そこには、イエスの真っ正面に、水腫をわずらっている人がいた。3 イエスは、律法の専門家、パリサイ人たちに、「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか」と言われた。4 しかし、彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いていやし、帰された。5 それから、彼らに言われた。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」6 彼らは答えることができなかった。

7 招かれた人々が上座を選んでいる様子に気づいておられたイエスは、彼らにたとえを話された。8 「婚礼の披露宴に招かれたときには、上座にすわってはいけません。あなたより身分の高い人が、招かれているかもしれないし、9 あなたやその人を招いた人が来て、『この人に席を譲ってください』とあなたに言うなら、そのときあなたは恥をかいて、末席に着かなければならないでしょう。10 招かれるようなことがあって、行ったなら、末席に着きなさい。そうしたら、あなたを招いた人が来て、『どうぞもっと上座にお進みください』と言うでしょう。そのときは、満座の中で面目を施すことになります。11 なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

ルカの福音書 14:1-11

旅路と宴会

ルカの福音書は旅路の福音書と以前に紹介しましたが、また食事の良く出てくる福音書でもあります。いずれもイエスのストーリーに重要に関わる食事会です。

  • パリサイ人シモンの家での宴会(7章)
  • 「わざわいだ!」と宣告した宴会(11章)
  • 放蕩息子を迎えた宴会(15章)
  • 最後の晩餐(22章)
  • エマオでの晩餐(24章)

今日の食事会は安息日であるパリサイ人の指導者のお宅でした。イエスはここでどんなストーリーを集まった者達に紐解くのでしょうか?パリサイ人や集まった客達は、「じっとイエスを見つめていた」と書かれています。この後の文脈から分かるのは、彼らは悪意を持ってイエスを待ち構えているということでは無いようです。しかし、イエスの言葉に行いのわざに心を開くことができるでしょうか?

安息日の癒し (1-6節)

これまでもイエスは安息日に癒しを与えて来ました。ルカの6章では律法学者達は、弟子達が麦を揉んで食べたことを咎めました。イエスは、「人の子は安息日の主です」と答えました。また、安息日にイエスは会堂で手の萎えた人を癒しました。イエスは、「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」この癒しを見て律法主義者たちは怒り狂ったのです。

今日の箇所でも状況が似ています。宴会の会場である指導者の家に入るとそこには水腫を患った男がいました。イエスに癒してもらいたいと思って先回りしていたのでしょうか。水腫や腫れ物には絶対触りたくない、というのが当時の人々の正直な気持ちだったのです。触った途端に自分が律法的に「汚れたもの」として排斥されることになるからです。

イエスは、周りの者達に、「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか」と尋ねました。誰も答えませんでした。それは答えが分からなかったというよりも、どう答えても、「癒し」の教えが自分に個人的に関わって来るようになるからです。イエスが共にいる時に、机上の論理を使った応答は役に立ちません。イエスに答える、ということはその言葉に従う生き方を選ぶか、それともイエスを拒絶する生き方をするかの二者択一しかないからです。 

彼らは言葉では返答しませんでしたが、その後の行動で彼らの応答は明らかでした。イエスの教える安息日の本当の意味は理解せず、結果その生き方は神に逆らう生き方を示していたからです。

席順争い(7-11節)

さて、一見次のパラグラフは前述の癒しの記事と直接繋がらないようにも思えませんか?ちょっと唐突に座席の話が癒しの話の続きになっています。でも深いつながりがあります。見ていきましょう。

宴会の客たちは誰よりも良い席に着こうと躍起になっていました。この世におけるポジション、権威、権勢が大事だったからです。一方イエスは、ルカの4章の、「貧しい人々に福音を伝えること、捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれること」という救い主としてのミッションの通り、しもべとして天の父に従順に従って生きているのです。これは決定的な違いです。

そして、イエスの目に見えたのは、癒されるべき水腫の男を避けて通り、自分の地位を誇り、高めようという思いに駆られてあくせくしている宴会の客たちの姿でした。

その姿は「イスラエル」と重なって見えたでしょう。神は旧約の預言者を通して、そして今まさに御子イエスを通して、イスラエルに神に立ち帰るよう語っています。イスラエルは神の贖いのわざを担うべく導かれおり、イエスはイスラエルが神に従って歩むよう切望し、導こうとしています。しかし残念ながら、これまでのストーリーを見れば分かるのはイスラエルはそのような歩みを退け、自分達の神バージョンに基づいて生き続けているのです。それがあわれみをかけることを忘れ、我先にと席順を争う、という行動に表れていたのでした。

「安息日」の意味することを無視し、上席を望む姿を見て、イエスはたとえ話を使って語りかけました。たとえ話は真理を掴みやすくするために語られます。このたとえ話でイエスはどんなことを語ったのでしょうか?

イエスは、水腫の男に手を触れて癒されました。その直後、人々は争って良い席に着こうとしていたのをイエスは見ていました。 NTライトはこう書いています。(筆者の抄訳をつけました)

「この章の続きを読むとはっきり分かるのは、イエスは、当時の人々は神の目にかなうような地位を求めて押し合いへし合いしている様子について語っていたのです。イエスの目には、人々は他の者達を押し退けてでも前に進み、自分達は律法を守り、清さを保っているということを示したがっているように映ったのです。… ルカの記事を通して、イエスは物事をひっくり返しているのがわかります。イエスは間違ったタイプの人々と関わっていたのです。触れてはならない者達に手を触れ、名も無い者達を呼び求めているのです。ですから、席順のたとえは、単に当時の社交上のアドバイスというより、本当の意義は、神のみ前にあって自分を前に押し出そうとすることに気をつけよ、という警告だったのです。イエスの当時は裕福で、律法をきちんと学んだ者達が自分達は神の目からしたら、貧しい者達や律法を学んだり実践する機会のない者達よりも優れている、と思い込んでしまいがちだったからです。」
“The rest of the chapter makes it clear that he’s talking about the way in which people of his day were jostling for position in the eyes of God. They were, so it appeared to him, eager to push themselves forward, to show how well they were keeping the law, to maintain their own purity. … And Jesus, throughout this section of Luke, is turning things upside down. He is associating with the wrong kind of people. He is touching the untouchable and calling the nobodies. The parable, then, isn’t so much good advice for social occasions … The real meaning is to be found in the warning against pushing oneself forward in the sight of God. In Jesus’ day it was all too easy for the well-off and the legally trained to imagine that they were superior in God’s sight to the poor, to those without the opportunity to study, let alone practice, the law.”

Luke for Everyone, N.T. Wright

リーダーのお宅に忍び込んでイエスに癒しを願った水腫の男には目もくれずに、自分の権勢を守り、示すだけのために労力を費やす見識があり律法に秀でた者達は、イエスには自己中心的な律法の数々とその解釈、そして贖いとあわれみに満ちた神のみこころを見失った生き方しているイスラエルが重なって見えたことでしょう。神のみこころを体現して歩むべきイスラエルは、救い主イエスが今そこに立っておられるのにもかかわらず、彼を見失い、自力の救いの道をひた走っているようです。イエスは、神に立ち返り、へり下り、イエスを救い主として受け入れよ、と嘆願しているのです。

次回は宴会パート2とも言えるでしょうか?宴席についた客の言葉をたくみに用いてイエスは神の御心を集まった者達に解き明かしていきます。