「神様の導き」とか「主の御心(みこころ)」とかってどうやって確信できるのだろう。15歳でクリスチャンになってからしばらくの年月に渡って、こんな事を考え出すと心が重くなる事があったのを覚えています。自分にはこれらを見極める力など全く無い事だけはヒシヒシと分かっていたからだと思います。○○年程たった(^^;)最近になって「なるほど」と解かってきた事がありますが、今回はその前半で「導かれる姿勢」みたいな、どうやって導きに備えるかに触れます。
1.神様の愛を信じる
神様は愛を持って私達を導かれようとしておられ、「推測ゲーム」で「当ててごらん」みたいな事はなさらない。これを信じる事がまず前提になると言う事;つまり、御心や導きを理解しようとする時、まず始めに神様が自分達を深く愛していてくださり、道を用意していてくださり、祝福しようとして下さっている事を心から信じる事が重要です。これが私達にどんな境遇のなかでも喜びや平安を与えてくださる根本と考えます。
2. 居るべき場所
人間は神様が意図しておられる「場所-状況」に居ないと言う事があり得る様です*。と言うか、そうなり勝ちなのかも知れません。 居るべき場所がハッキリ分からなくても本人には責任はありませんが、居ちゃいけない場所にいるなら大抵の場合は分かるのではないでしょうか? 例えば自分を神から離そうとする、聖書の教えに逆らった言動に走ってしまう強い誘惑が常にある場所-状況に居るかも知れない。もしくは、神様からの恵みだの祝福だのは欲しいけど、従うのは嫌だと言う姿勢でいるかも知れない。または、他の人がやっている事に憧れて、神様の前を先走って人の真似をした生き方をする。こんな感じで他にもまだ色々な形で「間違った場所」に居る可能性はあるでしょう。それに気が付いたら脱出する必要があるでしょう。その状況が人それぞれなら、「脱出」にもそれぞれの形があるので(物理的な脱出、考え方を変える、問題解決など)祈る事から初めて聖霊がどう導いておらてもそれに従う事で「居るべき場所」にたどり着けるでしょう。
*Ⅰ列王記19:13
3.与えられている世界
マタイ25章14-30節には、イエス様が語られた一つの例え話が書かれています。 その話では、旅にでかける主人が三人の使用人達に違う額の資金を預け、自分が戻るまでにそれらのお金を何らかの形で投資してお金を増やすように言いつけて旅立つ話があります。戻った時、主人は少しでもお金を増やした使用人たちを大いに褒め、何もしなかった使用人を厳しく叱ります。
与えられている金額を「才能」とか「賜物」と言うものと一般的に解釈されていて納得はできますが、自分の印象としてはもう一つあって、それはその人が住む世界にある全てではないかと感じます。お金や物、時間や資源などを大切に使う事は重要です。そして、それ以上に人間関係と言うものが大きな「資産」なのでは... 家族や友達、先生や生徒、上司や部下、顔見知りの人やその日に接点を持つ人達などをどう扱うかが大きく問われるのではないでしょうか。そして、出くわす様々な状況に関しても同じです。全てに関わる事はできませんが、自分が関与する様に示されている状況だと分かれば、神様からの助けに頼りながら精一杯働きかける必要があるでしょう。
資金を増やした二人の使用人を褒める時に主人は言います。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたはわずかなものに忠実だったから、私はあなたに沢山のものを任せよう。」 こんな風に神様は、自分に与えられている世界で小さい事にでも忠実に関わっている人を次の事へと導かれる様です。 自分の与えられている世界に忠実でいる事が導きを待つ姿勢と言う事な様です。
そこから前進する「次の事」をどう見極めるかは、次回の投稿で触れたいと思います。