先日のスタッフの祈り会でデビッド牧師がスタッフをレクチオ ディヴィナ (Lectio Divina)の時間へと導いてくれました。
レクチオディヴィナとは、神聖なる聖書朗読のことです。ゆっくりと聖書の箇所を音読し、黙想し、そしてまた同じ箇所を読み、神様の言葉に尋ねるのです。
- 最初は読んだ箇所のどこが、またはどの言葉が自分に響いてきたか思いを留めます。
- 次にそれが自分にとってはどう言う意味を持つのか考えながら、再び聖書を読みます。
- 最後に、その箇所、そして神様から自分に示されたことを通して、今自分は何をするべきかを探ります。そして神様にその決意を告白し、神様に励ましと力をいのり求めます。
30分ほどのレクチオディヴィナの実践でしたが何と豊かで恵みに溢れた時となったことでしょう。祈り会に出た時は、「ああ今日はアレをしてコレをして、でも、あの人の答えを待たないとコレが進まない、早く返事がもらえないと、、、」などと私の心や頭の中は千々に乱れていました。でも、祈り会を通して、フォーカスが戻り、神様が自分に語ってくれたこともはっきりと分かりました。
あなたも試してみませんか?その朝の祈り会で使った聖書の箇所を掲載しておきます。これを使ってみても、毎日のデボーションの聖書の箇所でもいいですね。
どの単語・フレーズが目に・耳に・心に飛び込んで来ますか?
どうしてその言葉が心に留まるのでしょうか?
その単語から神様は何を語って下さっているのでしょうか?
神様のその導きに今どのように応答するべきでしょうか?
祈り求めて下さい。
こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。
そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。
また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。
ヘブル書10:19-25
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