読む前の要点:

  • あなたは、何をしても満たされない気持ちになった事はありますか?
  • 人間が「神に似せて」創られたとすれば、どんな点が似ていると思いますか?

生きる意味

「アダムとイブ」と言う二人の名前は一番初めに創られた人間として一般的にもよく知られています。聖書の始めに、神が次々と天地万物の全てを神の言葉だけで、しかも六日の間に創造してしまうと言う話が書かれてあります*。進化論とは打って変わって、聖書が語る天地の創造の記録は天文学や生物学に対して大きな矛盾をいくつも突きつけている様に思え、おとぎ話だと思われる人は少なくはないでしょう。この「創造」に関しての理解の仕方は奥深い説が幾通りか出されている様ですが、一つだけ覚えておきたい事があります。神の天地創造は、聖書の一語一句通りであっても、そこまで出来なければ「全能の神」とは言えないのです。言い方を変えれば、創り主としての権威をもって万物を創られた神ご自身が、ご自分の創られた宇宙や生物の世界の法則に縛られる義務は全く無いと言う事です。(とびら① 「偉大なる創り主」参照)

*創世記1-2章

神の一言だけで一つ一つ存在しだした - ただ人間だけを除いて。 最初の二人を創る時だけは別でした。第六日目、すべての生き物を創られた後、神はこう言われました。「われわれ*に似るようにわれわれの形に人を造ろう。そして、彼らに海の魚、空の鳥、家畜、地の全てのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」(創世記1:26)そう言って神は土をとり、初めの人間アダムを形作り、命の息吹をアダムの鼻から吹き込まれてアダムは生きた人間になります。そしてまた、アダムの骨からイブをも創られました。アダムやイブが神の手の中で一人一人大切に造られているのが想像できるでしょうか? この箇所を読むと、人間は神にとって、他の生き物よりも更に特別な存在である事がわかります。(マタイの福音書6:26-30)

*とびら② 「父と子と聖霊」

では、神に似せて創られるとはどう言う事なのでしょうか?人間が他の生き物と違って「神に似ている」と言う点をいくつか挙げてみます。

創造性: 

虫や動物が巣を作ったりするのは、それぞれのパターンが遺伝子の中に組み込まれているのか、その一定の物しか造りません。人間の場合は、個人差はありますが、人それぞれ個性と想像力が優れているので、芸術的にも美術的にも技術的にも科学的にも医学的にも常に進歩しているのを歴史を通して見る事ができます。現代の近代社会もこれらの創造性に基盤を置いている事は言うまでもありません。

善良を好む:

人間は根本的には、友情だったり愛情だったり、潔白でありたかったり、良い事を追い求めます。なので悪に対する怒りや悲しみ、又は罪悪感を感じたりします。

自由意志: 

何処へ行って何をしようと考えるのは動物もやる事です。ここで言う自由意志は、自分が何を信じるかを決める、自分の道徳的な水準を決めると言う物です。神と言う存在や世界観、人生に関してのスタンスを自分で決める自由意志です。これは単純に定められた法則の下に生きている動物達には無いものと言えるでしょう。

生きる意味を探す:

人は神と言う存在を意識する様に創られていて、人生には日常の事や、未来を計画する事よりも、もっと重要な目的、生きる意味がある筈だと本能的に知っています。その意識から、人はそれぞれが、あらゆる方面で「神」を探し生きがいを探します。

一台のバイオリンの話をします。このバイオリンはとても高価なものなのですが、これには心があると想像します。バイオリンの持ち主はこれがとても自慢で、いつもピカピカに磨き上げてはそのバイオリンをガラスのケースに入れて、応接間の中央の壁だなに飾ります。傍から見ると、とても豪華です。しかし、この持ち主は、バイオリンを習っていないのでこれを手に取って弾こうとは一切しません。見た目は大切にされているバイオリンも、自分が造られた元々の目的が果たせていない事に、深い空しさを感じるのではないでしょうか?しかしある時、その家を一人のバイオリニストの青年が訪れます。彼はそのバイオリンの弦を新しいものに張り替え、調節してからいくつもの美しい曲を演奏するとします。この時初めて、バイオリンはその造られた意味を味わって心が満たされる事でしょう。

人の心もこれに似ていて、例え傍からみてどんなに全てが揃っていて豪華な人生に見えても、神との関係を持つと言う、その人が創られた真の目的を果たせていなければ、その人の心は空しいままに終わってしまいます。人間が世々に渡って、「神」を探し続けているのであれば、現代世界中にあらゆる文化が作りだした宗教が存在しているのは不思議な事ではありません。

人類が「拝する」対象は他にもあります。例えば自分の意見や言葉が誰よりも優れていて必ず尊重され、自分も必ず尊敬されるべき存在だと言う錯覚を起こしてしまう、つまり自分自身を「神」とする場合。または、それとは対抗して、今度は一人の人物を高く掲げ挙げて(アイドル、有名人、教師、政治家、哲学者等)その人の言動に間違えは有り得ないとしてしまう事もあります。その他には、欲しいものを手に入れる事、やりたい事をする事、行きたい場所を訪れる事等で心を満たそうとする事もあります。しかし、これらの喜びは一時的なものですね。

その他にも、「成功」や「出世」と言う名の神を追い求める人も多くいます。自分の学業や職業の成功に身も心も全てを掛けてしまい、それが願っていた様に行かなくなった時、自分自身の価値を見失って大きなダメージを受けてしまう事も珍しくはないようです。

また同じ様に幅広く見受けられる「神の追究」は人間関係の中に見る事ができるのではないでしょうか? 家族、友達、恋人などを愛する事は重要な事です。しかし気をつけなければ、自分の心を満たしてもらおうと、人に対して期待過剰だったり非現実的な要求を持つて相手を苦しめてしまいます。

真実の神と出会うまで、人の心には「空虚」と言う名の大きな空洞が存在します。その空洞は神にだけしか満たす事ができないのです*。空虚は、あらゆる状況を超えて絡みつくものですが、真の神が与えてくださる平安や喜びもそれに増して状況を超えます。イエスキリストはご自身を羊飼いに、信じる人達を羊に例えて言っています。

*聖書:伝道者の書 参照

「私が来たのは、羊が命を得、またそれを豊かに持つためです。」ヨハネ10:10.

全てが素晴らしく思い通りに行くと言う「豊かさ」ではありません。 イエスは「この世には患難がある」とも言っておられます*。(ヨハネの福音書16:33)ここで言う「豊かさ」は、自分の全てを知っている神が自分を愛して下さっている豊かさ、自分が生まれて来た意味を知る豊かさ、自分を創られた方が自分の行くべき道をも示してくださる豊かさ、どの様な苦しく悲しい状況の中でも神が共にいて下さる豊かさ、自分の未来の心配や心の重荷を取り去って下さる豊かさ、罪が赦されて天国が保証されている豊かさです。「空虚」と言う心の暗い空洞を光と命で満たす事は生きておられる神にしかできないのです。

*ヨハネの福音書16:33

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」

申命記8:3、  マタイの福音書4:4

神と愛する関係を持つために創られたのであれば、何が神と人間との間の妨げになっているのかに関しては、とびら⑥ 「神からの独立」で詳しく触れています。

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