創世記12:4-13:4

4 アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。5 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。6 アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。

7 そのころ、主がアブラムに現れ、そして、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。8 彼はそこからベテルの東にある山の方に移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のために、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。9 それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。10 さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。

11 彼はエジプトに近づき、そこに入ろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。12 エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。13 どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」14 アブラムがエジプトに入って行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。15 パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。16 パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。

17 しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロとその家をひどい災害で痛めつけた。18 そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを告げなかったのか。19 なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」20 パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。

1 それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。2 アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。3 彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、初めに天幕を張った所まで来た。4 そこは彼が以前に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。

出だしは良かったアブラハムとサラ

アブラハムは「主がお告げになったとおりに出かけた (12:4a)」と書かれているとおり出発しました神様の約束は大まかに言って二つです。神様はアブラハムを大いなる国民とし、彼を通して地上の全ての民族が祝福を受ける、という大きな約束をもらい、意気揚々と出発したことでしょう。

使徒パウロはローマ人の手紙で信仰者はアブラハムの信仰の足跡に従っていると書いています。

3 聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。私たちの父アブラハムが…信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。(ローマ 4:3, 12a)

私たちの行動はいつも何かしらの「信仰」に基づいています。肝心なのは何に信仰をおいているかです。

Darrell Johnson師は神への信仰とは自分の身を神様に投げ出すことだと説明します。アブラハムの信仰の歩みもこの信仰に満ちていました。しかし、神様に身を投げ出す信頼を持たず、あたかも神様の約束が成就できるように「自分の力でお手伝い」しているような場面も多くありました。

信仰の歩みで転んでしまったアブラハム

しかし、アブラハムの信仰の歩みは私たちの歩みと同様、コケることが多かったのです。例えば次のような点が挙げられます。

  • ロトを連れて行った(12:1, 5)
  • 勝手にエジプトに行った (12:10)
  • 嘘をついて妻のサライを差し出した (12:11-13)
  • 神を疑いハガルによって子孫を継続させようとした (16:1-2)

アブラハムの素晴らしい信仰の歩みからも、また彼のとった間違った信仰の歩みからも学ぶことが出来ます。アブラハムは「信仰の父」と言われていますが、スーパーマンではありません。日常の生活においての信仰が常に神様に向いていたとも言えませんが、生身の人間の神様との信仰における対峙の仕方、生き方は学ぶことが多いのです。

ロト

神様はアブラハムに「私が示す土地に行け」と言ったのには注意点が含まれていました。それは、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。(口語訳聖書)」と書いてあるとおりです。新改訳聖書では少しニュアンスが伝わりにくいですが、つまり、出発する時にはあなたとサラだけで行け、ということだったのです。しかし、アブラハムは甥のロトを連れて行きました。神様の命令と神様の約束を聞いて、自分なりにベストな方策をとったのかもしれません。この後に取る行動からも分かるように、アブラハムは自分から子孫が直接サラを通して生まれてくることなど全く想像していなかったでしょうから、神様の約束を成就させるには若い甥っ子のロトを連れてゆくのが適切だと思ったのかもしれません。こうして自分の身を全て投げ出し任せる、というような信仰では無くなっていたのです。ボタンの掛け違いのようなことが始まって行きます。

ベテル

アブラハムは主が現れて語って下さった場所にそれを覚えるために祭壇を築きました。この場所で彼は神様を認め、仰ぎ、信仰を持って信頼を現したのです。この場所は後にアブラハムにとって大事な場所になります。私たちも信仰を持ったそのような場所や時を覚えていませんか?神様との出会いの場所は特別な意義を持っていませんか?

二つの危機

神様の意志にそって歩んでいても危険やトラブルは起きるのです。そのような危機に陥った時、どう行動するかが鍵です。アブラハムとサラは飢饉に瀕した時、真っ先に自分の知恵に基づいて神様無しの決断に基づいてエジプトに向かってしまいました。 彼らだけが不信仰なのではありません。私たちも同じように困ったことが発生したら、まず最初に取る行動は自分の出来ること、知識、力に頼ってしまうのです。するとさらに困窮することになるのです。

そしてエジプトに着くと新たな危機に遭遇します。それは偉大な権力者パロを目の前にして、アブラハムは自分の身の危険を感じます。自分の美しい妻を奪いたいがためにパロは自分を殺すのではないかと恐れたのです。そこで、自己保身のため、パロに嘘をつくのです。アブラハムは自分の妻サラは自分の妹だと伝えるのです。歴史的に言うとこれは全く嘘と言う訳でもないようです。サラはアブラハムの血のつながらない妹だと言われています。ともあれ、こうして嘘をついて自分の妻を差し出すことによってアブラハムは危機を乗り越えようとしました。

私たちも「目的のために手段は選ばない」みたいに考えることがありませんか?アブラハムの策略はうまくいったかのように見えました。

「しかし」(12:17)

聖書には度々「しかし主は」とか「しかし神は」とたくさんの「しかし」が出てきます。アブラハムにとって事態は好転したように思えたかもしれませんが、差し出されてしまったサラはどうなるのでしょうか?

神様はあわれみをかけられたのです。「サライのことで」と書かれています。神様はアブラハムが困っていたからというより、彼の妻サラのためにパロに疫病を送り、サラとアブラハムとの関係を分からせたのです。そしてパロはアブラハムとサラに持ち物を全て返し、その地から追い出したのでした。

ベテルに帰る

「彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、初めに天幕を張った所まで来た そこは彼が以前に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。」13章 3-4節

エジプトを追い出された一行はどこに向かったのでしょうか。アブラハムは神様と出会い礼拝を捧げたベテルに戻ったのです。神様を心に留める者達は必ずと言っていいほど神様と出会った場所に戻りたくなるものです。神様を礼拝し、神様からのあわれみと赦しを乞い願うのです。信仰は失敗や困難がつきものです。アップダウンがあっても常に神様を追い求め前進することがアブラハムの人生から学べるのです。

この箇所から学べること

1) 私たちは「現実的に」行動しなければならない

現代的な、そして現在の文化の中で「現実的に生きる」というとそれは実践的で、自分の力を正しく理解したり、どんな行動が合理的で、それに基づいてどんな意思決定をするべきか、と考えるのです。しかし、真の現実は私たちの五感を超えています。信仰を持つものにとっての「現実」には神様の臨在が含まれていなければなりません。神は現在も生きておられるのです。何事も何をするにも神様がそこに含まれていなければ「現実的」ではないのです。現代を生きるクリスチャンにとっては、イエスキリストの生涯・十字架の死・復活・昇天・そして再臨が自分の人生にどんな意味を持っているかよくわきまえていなければ、本当の意味で現実に生きることは出来ないのです。

2) 信仰の歩みには心の準備がいつも必要である

必ず危機はやってきます。知っておくべきなのは、「恐怖感」が私たちの視野を歪ませ、自分の力に頼ろうという本能的な行動をますます焚き付けてしまうということです。聖書には何度も「恐れてはならない」と書かれているのは偶然ではありません。

日々の歩みでは、「待つ」ことに力を注ぐのが良いでしょう。危機がくるとすぐに自分の力に頼る本能ではなく、新しく、何かあるとまず神様を待ち望む、そういう本能を鍛えるのです。日々御言葉にひたり、神様の臨在をますます覚えることが出来るように神様の言葉、導きを「待つ」のです。

聖書には神様が偉大である、と書かれている箇所が多くあります。それらを暗記し、問題が発生してもその聖書の箇所を覚え、自分に宣言するのです。

3) 信仰の歩みは一歩一歩進むものである

毎日・毎時間・毎分・毎秒、神様に身を委ねるべく決断するのです。過去に上手く出来たからと言って将来も上手くいくとは限りません。毎日キリストにおける自分の人生を深く理解して行けばいくほど信仰の歩みの一歩一歩は強められて行きます。

サムエル・シューメイカーはアメリカで始まったアルコホーリクス・アノニマスの創設に関わった聖公会の牧師です。彼は信仰を一歩一歩という観点からこう説明しました。

「信仰と自分が理解している限りの自分を、自分が理解している限りのキリストに委ねることである。 “Faith is committing as much of yourself as you understand to as much Christ as you understand.”

Samuel Shoemaker, Episcopal Priest”

自分は自分のことを知り尽くしている訳ではないし、キリストのことを全て知り尽くしている訳でものない。しかし、今の自分を全て、そして今分かっているイエスの元に自分を投げ出し信頼する、それが信仰の一歩一歩の歩みだ、と言っているのです。