信仰生活の居場所
「私たちが生ける神の前に立つ時どのように反応するかは自分たちが自分の霊的な居場所をどんなところにおいているかが反映する。“Our reaction to the presence of God in our lives mirrors the foundation upon which we have constructed our spiritual dwelling.”」
Brad Strelau, CA Church Town Centre Campus pastor
今回のストーリーを読み、学ぶ時、アブラハムの信仰生活の居場所はどこか、ロトの居場所はどこか、そして現代の私たちの居場所はどこか、と質問しながら読み進めてみてください。
浮き沈みの信仰生活と神の恵み
確かにアブラハムとサラの信仰生活は常に順風満帆ではありませんでした。自分の身を神に投げ出すのではなく、自分の力、策略を尽くしてしまいその罪の結果を味わうことも多々ありました。その都度明らかになったのは、神は恵みとあわれみに満ちており、ご自身の約束・契約は忠実に守るお方である、ということです。神は決してアブラハムを見捨ててしまいません。それどころか、罪の結果の中にすら贖いの道を備えたのです。それを人生経験としてアブラハムは神との関係、すなわち信仰を深めていったのです。
深まる神との関係 (18:1-15)
アブラハムの信仰の目はますます良く見えるようになって来ました。まるで神に対してのアンテナが常にピンと張り巡らせているようです。ですから、聖書にははっきり書いていませんが、アブラハムは、「見上げて」この3人はただものならない方々だ、とアブラハムは感じとり、大盤振る舞いとも言えるほどのもてなしをしたのです。彼の「見上げる」目は単に肉眼で見えるものだけではなく、神の事柄を察知できるようになってきていたのです。
ここで彼らはアブラハムに再び子孫の約束を与えました。最初に神が約束を与えた時からすると(創世記12章)約25年立っていました。アブラハムとサラはこの時まで自分の甥のロト、養子縁組によって、あるいは女どれいを通して、子孫を継続させるのでは、とまるで「神のお手伝い」をするかのような行動を取ってきました。いずれの場合も神はそうではない、と教えてきたのです。そして、主は彼らに(サラはテントの中で盗み聞きしてましたが)来年の今頃に赤ちゃんが生まれる、と伝えるのです。
自分の常識では到底信じられない、と言う二人に対して、神は「 主に不可能なことがあろうか。(18:14a)」と諭すのです。
神の裁き(18:16-21)
「そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。」
(18:20)
現代社会は「裁く」ということにとても敏感に反応します。裁かれるということはとりも直さず自分の権利・アイデンティティーへの攻撃と感じ取るからです。
私は日本の刑事ドラマが好きです。どんなに複雑怪奇な事件も、主人公とそのチームの働きで大抵の場合犯人が捕まるからです。先日見たドラマもそのような流れでした。巨悪と圧力に屈することなく検事としての使命を全うするドラマでした。主人公は圧力に屈し、悪の流れに従おうとする上司に対して、「犯した罪は真っ当に裁かれなければならない」という信念を持って犯罪をあばき、犯罪者に裁判での審判を受けさせるというストーリーでした。
自分のことが裁かれるのは嫌でしょうが、どんな人も世の中の不正、不義、不公平についてはそれらが正しく裁かれればいいのにと感じているのでは無いでしょうか。多くのインターネットで見られる動画は不条理な行動をする人たちを揶揄したり、不正が(大抵は交通違反ですが)適切に正されるのを見るのが好きなのではありませんか。
いよいよソドムとゴモラに向かって御使たちが進んでゆき、その不正を確認し滅ぼそうとしていたのでした。
大胆な神とのやりとり(18:22-33)
この滅ぼしの計画を聞いたアブラハムは驚くべき行動に出ます。彼は主に対してとりなしの行動を取ります。これは自分の身内のロトのためかもしれませんが、「あなた方に男の子が与えられる」「神に出来ないことがあろうか」「滅ぼす」なんて言っている神に対して物言いをつけるなんてとても大胆です。
これまでの神との対話の経験、そして深まってゆく信仰によってアブラハムは素直に、大胆に神に問いかけ、とりなしをするのです。
ここから私たちは神との祈りのパターンを学べるのです。私たちは、神により良く耳を傾けてもらい、祈りの答えをもらいたいが故に、祈りをなんとか美しい語調や、語彙を用いようと努力したりします。しかし、多くの場合聖書の祈りのパターンは心の叫びを正直に伝えるケースが多いのです。聖書に出てくる人物たちの叫びは穏やかな言葉使いではないこともあります。疑問を疑問として神にぶつけるのです。
アブラハムと神の対話から分かるのは、感謝なことに、神はアブラハムの一つ一つの問いかけに忍耐強く、あわれみを持って答えてくださった、ということです。
神と歩み続ける寄留者の生活をやめたロト(19章)
19章のロトの記事から学びます。ロトはどこで間違えてしまったのでしょうか?現代の私たちにとっての警鐘はなんでしょうか。
13章のストーリーを思い返してみてください。
「ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼす以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。」
(13章10-13)
ロトはソドムの「近くに」居を構えたのでした。ところが19章を見ると、「ロトはソドムの門のところにすわっていた。」とあります。当時の中東では、「門」にいる人はその土地の重要人物であったとされています。つまり、ソドムの外に住んでいたロトは今ではソドムにおいて一目も二目も置かれる町の大物になっていたのでした。しかも住まいはソドムに移っていました。
ロトはソドムの近くで住んでいるうちに、ソドムの町のもたらす誘惑に負け、その中に入っていったのでした。後にあわれみによって救い出されたロト、その妻(名前すら残されていません)、そして娘たちでしたが、振り返るな、と言われておきながらロトの妻は振り返り、塩の柱になってしまいました。「後ろ髪が引かれる」ような思いだったでしょうか?それともソドムの生活が恋しかったでしょうか。聖書の「重荷とまとわりつく罪(ヘブル 12:1)と言う表現を思い出しました。
私たちはここから学び、自分の信仰生活に生かせる教訓があります。自分の信仰生活の「住まい」をどんな環境においているでしょうか?ポルノであったり、お酒の濫用であったり、自分の弱く、罪をおかしやす傾向を知っておきながら、その罪の「近くに」生活したり、これくらいなら、と妥協した生き方をするなら、まさしくロトのようにその罪の誘惑に飲み込まれてしまい、飲み込まれたことすら気づかない状態になってしまいます。
「機能的無神論者」という表現があります。クリスチャンとして神を知っておりながら、その生活があたかも無神論者のようである人を指す言葉だそうです。「自分の身を神に投げ出す」どころか常に自分が中心に生きるのです。まさにロトのようです。
19章のロトの行動、家族たちからの嘲笑や、娘たちの取る行動などを見ればソドムとゴモラの影響が彼らの間に浸透していたことがわかります。神の現実を見る目も失われ、知恵ある行動を取ろうとしてもとんでもない行動しか取れなくなっているのです。全てこれは神と共に歩み続ける、と言う巡礼者としての人生を捨てたことが原因なのです。
どうすることでロトのような霊的に破綻した生き方を回避できるのでしょうか?
巡礼者として生きる
罪深い町ソドムの近くに生活の居をすえてはいけません。誘惑の近くをふらついてはいけないのです。あなたにはコミュニティーが必要です。自分の信頼できるクリスチャンの仲間と共に信仰を歩むのです。クリスチャン同士のコミュニティーから断絶し、自分とキリストで生きていこうとするなら、ロトのように誘惑の道に流れて行きがちです。コロナのために多くのクリスチャンたちが孤独となり、それによって霊的に落ち込んでいった事例が多くあります。ヘブル書の言葉は励ましです。
「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者でイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこうような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」
ヘブル書 12:1-3
神の壮大なる贖いと恵みのストーリー
19章を読むとガッカリしませんか? 希望が失われたように思えます。自分もロトのような霊的な生き様を送ってきてしまったなら、もうこれからなんの希望もない、と思ってしまいがちです。
諦めるのはまだ早いです。この箇所を読んでください。
「こうして、ロトのふたりの娘は、父によってみごもった。姉は男の子を産んで、その子をモアブと名づけた。彼は今日のモアブ人の先祖である。妹もまた、男の子を産んで、その子をベン・アミと名づけた。彼は今日のアモン人の先祖である。 」
(19:36-38)
罪深い行動からの結果の報告のようです。アブラハムを先祖にもつ、すなわちイスラエルと血縁関係にありながら、モアブもアモンも神に逆らう民族となったからです。
しかし、モアブの民からある人物が出てきます。それはルツ記の主人公ルツです。聖書の士師記の時代、ベツレヘム出身のエリメレクと妻のナオミはモアブに移り住み、二人の息子たちはモアブ人の娘たちと結婚します。そのうちの一人がモアブ人ルツでした。エリメレクが亡くなり、息子たちも死に皆未亡人となります。ナオミは嫁たちをモアブの家族の元へ返し、自分は故郷ユダに帰ろうとします。しかし、ルツは姑のナオミと共に行きたい、と願います。有名な聖句がこれです。
「あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。(ルツ1:16)
神のストーリーは壮大です。このルツは後に新約聖書のマタイの福音書に名前を連ねることになるのですから。
「ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、エッサイにダビデ王が生まれた。(マタイ 1:5-6)」
つまり、ルツはダビデ王のひいおばあちゃんです。キリストの系図に名前が連なっているのです。
神の贖いの力は私たちの罪、罪からの結果より壮大で偉大です。ロトの罪にまみれた人生のおどろおどろしい娘たちの行動の結果すら、大いなるキリストにつながるストーリーの一部になるのです。
私たちは罪は大きく、その結果に苦しむ時、到底自分にはなんの贖いの道も、救済の道も無いかのように思えるかもしれませんが、そんな時、キリストの十字架を、彼の復活を思い出して下さい。イエスは常にいのちを与えるのです。どんなに不毛の地に思えてもキリストからは豊かないのちが溢れるのです。