私は物事を順序立てて考え実行するタイプです。どう言うことかと言うと、ポリシーとか、ルールとか、何事もこうすればああなる、と言う予測可能な道筋のあることに安心感を覚えるのです。

ですから、何が上手くいったか、成功したか、と言うバロメーターはこのようなルールに沿った道筋を通って実行出来たかどうかにかかっています。

仕事上でもマニュアルとか、ポリシー、プランニング、といった筋道がはっきりしたものを多く扱っています。問題は、あまりにそこに集中しすぎていると、それが生活のあらゆる部分に反映してくるようになることです。

信仰の上でもそれが顕著になり始めることがあります。律法主義的になりたくない、と言う気持ちは強いので。でも、そうならないように、と自分なりの「ルール」を作っている自分の行動を見て、あれっ?これってルールじゃん、なんて思って一つのルールから別のルールに移っただけなのかな?などと悪循環に陥ることもあります。それは全く建設的ではありませんし、窮屈に信仰生活を送ってしまうことになります。

もっと悪いのは、そんなルールや成功の基準を自分ではなく、人に当てはめようとしたり、当てはめて人を裁いてしまったりすることです。これは自分だけが窮屈な信仰になるばかりか、自分を人から孤立させる窮屈な人間関係を生み出すことになってしまいます。

先日 Eugene Peterson先生のデボーションを読んでいたところ、ネズミが車輪をくるくる回っているような状態から解放してくれるようなメッセージがありました。先生の翻訳した「メッセージ訳聖書」のガラテヤ人への手紙6章1節からのものでした。 メッセージ訳では、ここは「親愛なるみなさん、クリエイティブに生きましょう。」と訳されています。

「親愛なる皆さん、クリエイティブに生きましょう。」ガラテヤ書6章1節

私は全ての人は神様の似姿に創造されたと信じています。ですから、神様が創造主であるとすれば、私たちも創造力に長けた者たちであるのです。しかし人生においてはなかなかそれが助長されていません。規則を守りましょう、とか、学校、教会、家や仕事場では誰かが作ったやり方に従い、その範囲内で物事を覚え、祈り、遊び、仕事などをするのです。このような強い促しには勝てません。しかし、キリストにあって私たちは自由にクリエイティブに生きれるはずです。神様に対して、周りの人々に対して、そしてこの世で生きるに当たって、あたかも芸術家のようにクリエイティブに生きるのです。それは誰かの方策を丸ごとコピーするようなものではないのです。オリジナル性を持って生きることが出来るようにと神様が解放してくれたのですから。

God’s Message for Each Day

ガラテヤ6章1節は新改訳聖書では「御霊の人であるあなたがたは」と訳されています。「スピリチュアルなあなた達」つまり、聖霊によって導かれ、歩んでいる人たち、と言うことです。

この意味は重要です。自由というのは何でもオッケーではなく、聖霊に従うということですから。

私は礼拝の賛美チームでベースを弾いています。もしバンドのメンバーそれぞれが、自由に独創的に演奏したり歌ったりしたら、それはもはやクリエイティブではなく、自己中心の集大成で、混乱にしかなりません。神様は聖霊に従う自由を与えたいと願っています。

ガラテヤ書の続きを読んで行くと、「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」とあります。イエスの律法は身をかがめて、神と人との前に支えながら歩むことです。

常々感じさせられますが、神様は得てして日常のリズムと私の麗しいプロセスを中断させ、割り込んでくるように思えます。そんな時、神様は、「はい、では聖霊の声を聞いてくださいね」と言っているんでしょう。

仕事場では大抵忙しい時に、あるいは複雑な状況を溶きほぐそう、としているときにこの神様からの仕事中止命令が来ます。

今週はオフィスのペンキ塗りやプチ改築をしていますので、仕事場は物がごったがえしていますが、今週末は9月新年度キックオフなので色々細かい作業をしなければなりません。そんな中、神様は次から次へと来客者を送って来ます。それぞれの方々は色々なニーズを抱えており、一筋縄ではいかない対応が必要でした。

本当にああ聖霊に頼らないとダメだ、という状況が造られるのです。先送りになった業務のことが心配になったり、さっきの人には最善の対応が出来ただろうか、とか頭に引っかかるのです。一つはっきりしているのは、それらは間違いなくあれは神様からの導きだったんだ、ということです。ますます、聖霊によって、聖霊に従って、クリエイティブに生きたい、と想わされたのです。