2019年に Eugene Peterson の Living the Resurrection から三つの投稿をしました。今月20日のイースター、キリストの復活を祝う時に備え、その本と、当時の投稿を再度見直して、今回の投稿にしています。
Eugene Petersonは復活は自分が手にとって加工したり再生することが出来ないものだと言います。自分の勝手なものに作り変えることは出来ないのです。日本人は結構海外や異質なものに触れるとそれを日本風に作り替えて、似て非なるものにするのですが、それがまた、「和風」なので日本人にあったものになります。しかし復活は「和風」や「自己流」にして自分なりに取り込むことは出来ないのです。
この自己流を否む復活を三つの側面から考え、そして復活を体験する、生きる助けになるよう願っています。
1 復活の不思議:ワーシップ
「私たちが「復活」に目を向けられない理由は、「復活」は私たちがコントロールしたり、利用したり、改善して用いようとすることが出来るものではないからです。「不思議」と言うのは上手にパッケージにしたり、「不思議力アップ」とか出来るしろものではありません。」
これが復活の持つ「不思議」への命題です。「不思議」には「畏れ」と「親密さ」の両方の要素によって礼拝することが初めの第一歩です。
マタイの福音書にこの崇拝の仕方の例が出てきます。イエスの復活後の出来事です
さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。
「恐ろしくはあったが大喜びで」マリアたちはイエスに出会い、彼に近づき、その足にすがりついたのです。畏れを抱きつつ親密の情を示す、これが礼拝・ワーシップのエッセンスです。そしてワーシップ、イエスを崇拝するということは体験に基づく関係をもつことです。
頭で理解するだけでなく、体験を通して知ることが必要です。聖書を読み、内容を理解し、神学的な知識を深め、道徳的な行動としてそれらの知識を応用・適用する、と言うのでは不十分です。イマジネーションを働かせ、神様のストーリーに飛び込んで見ることが「不思議」を体験できるヒントだと思います。
2 復活の食事:聖餐式
食生活は生きる上で必要不可欠ですが、単に生息するためのみならず、人と関わりあう、と言う点でも必要不可欠です。実は、クリスチャンとして生きていくことにおいても、この日常生活のありきたりな食生活はキリストの「復活」に関わる重要な生活の一部です。日常生活から神様が切り離され始めると、どんなに活力溢れたクリスチャンも次第に生活から神様への思いが薄れ、力を失うのです。残念ながら、日曜はクリスチャンとしての振る舞いをするが、その他の日は無神論者のように生きるクリスチャンが多いのも否めない現実です。
復活の主が食事をした記事が2箇所出てきます。ルカの福音書24章と、ヨハネの福音書21章です。ルカの記事では、2人のキリストの弟子、クレオパとその同伴者がエルサレムからエマオの町に向かって歩むところから始まります。ヨハネの福音書では、ペテロを始めとした弟子たちがイエスの言葉通りガリラヤでイエスを待っているところから始まります。ぜひ聖書を開いてその箇所をゆっくり読んでみてはいかがでしょうか。
- ルカによる福音書24章13〜35節
- ヨハネによる福音書21章1〜14節
「復活の不思議」でも言及しましたが、聖書を読み進める時に役に立つのはイマジネーションを働かせることです。これらの聖書の箇所を読む時に自分がその場にいるのを想像して読んでみるのをお勧めします。
これらの記事からピーターソン先生が語るのは、いずれの場合も、食事はイエスが主人役を担った、ということが注目できることだ、と言います。「復活」は自分達がどうこうしてコントロール出来るものではありません。しかし私たちは「復活」に参加することが可能です。それはイエスが招き入れてくれて、リードしてくれるからです。いずれの記事においても最初はイエスのことをイエスだと分からなかったのに、イエスが食事の主人をする、ということを通して、イエスをイエスだとわかった、というのです。
私たちは自分の信仰の成長を自分でつかさどることは出来ないのです。自分の気分に合わせて成長することは不可能です。しかし、この復活の信仰に積極的に参加し、自分が飛び込むことはできるのです。
最後に、この食事、あるいは福音書の他の食事の記事から、教会が始めたある重要な聖礼典があります。それは聖餐式です。聖餐式はキリストの十字架を覚え、彼の再臨を待ち望み、信者が共に預かる大事な記念式典です。パウロは、こう語りました。
「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」 コリント第一の手紙11章23〜26節
福音書の中の、食事の記事で、5千人に食事を与えた時、4千人に食事を与え時、最後の晩餐、そしてエマオでの食事、その際に出てくる4つの動詞に注目したいです。それは、「取り」「感謝を捧げ」「裂き」、「与える」という4つの動詞です。
- イエスが「取る」のは、すべて私たちが彼のところに持ってゆくものです。それは私達自身も含まれます。
- イエスは私達の捧げるもの、自分自身を天に向かい、天の父なる神様に対して「感謝を捧げます」。
- イエスは私達の中になる自己中心、自己欺瞞、神なく生きる自給自足的な信仰、そういうものをすべて十字架において砕くのです。私たちは「裂かれる」のです。
- イエスは私達に新しいいのちを「与え」てくださいます。それは向上した人生ではなく、上手になった信仰の持ち方でもなく、全く新しくされた、造りかえられた、イエスの十字架によって交換されたいのちなのです。
復活の主はこのいのちを与えてくださいます。これがキリストは私のうちにおられる、ということなんです。「復活の食事」とは、このいのちにつながる重要な、しかし日常に起こる生活の一部なのです。
3 復活の友人達:洗礼
私達の生活では専門家・プロのお世話になることが多いです。病気になれば専門の医者にかかりますし、会計のトラブルがあれば会計士さんに頼ったりします。専門性が高くなればなるほどその道のプロに頼るわけです。
信仰生活においてはどうでしょうか?信仰のプロ頼みの信仰生活もアリかな、なんていう感じでしょうか。例えば、お祈りは牧師や信仰の篤い長老に任せきりでしょうか。聖書を読むのは厄介で、わかりにくいので、ユーチューブの解りやすい解説されたものをフンフンと視聴するだけでしょうか。自分には無理だけど、大事なことなんで、やはりその道のプロにお願い、ということになるのでしょうか?
しかし、信仰生活には、信仰の成長には「プロ頼み」などはありません。
「神は抽象概念では無いので我々が理解、把握することの出来るようなもの、では無い。我々が利用出来るような無機質のちからでもありません。自分だけの体験として我々が楽しみにふけるようなものでもありません。イエスの復活を知り、それに応える、ということはすなわち、三位一体の神の働かれるみ前に入る、ということを意味するのです。そして、信仰を同じくする兄弟姉妹と共に、聖霊によってキリストのいのちに預かり、成長していく身となるのです。」 Living the Resurrection y Eugene Peterson
私達はイエスの復活のゆえに、彼のいのちを与えられ、豊かな人生を歩めるのです。それは孤独な自己研鑽や自己実現の歩みではなく、信仰の兄弟姉妹と共に歩むのです。そこには、階級の違いとかプロとかアマチュアとかの差は無いのです。
これは、洗礼において顕著に表されている信仰の歩みだ、とピーターソン先生は語るのです。洗礼では、三位一体の神のみ前に一人として立ちますが、周りには信仰の友達が証人として集まっているのです。その友人達もそれぞれ一人一人、各々聖霊によって歩み、イエスのいのちにあって成長しているのです。洗礼がそのアイデンティティーを確立してくれるのです。
「聖なる洗礼式において、我々の人生は復活によって定義づけられるのです。我々は次のように確信するのです。我々が生きておられる主イエスを知っていること、そしてそのイエスに知られていることです。さらに、そのことを知っている者として人から知られることになる、という事実を知ることになるのです。」”In holy baptism, our lives are defined by resurrection. We know and are known by knowing and being known by the living Jesus Christ.” Living the Resurrection by Eugene Peterson
最後に
私達の信仰の歩みを確かなものとするのは、「復活」である、とピーターソンは熱く語ります。復活は、人生に不思議と驚きを与え、礼拝へと導きます。イエスに対する畏敬の念を、同時に限りなく親愛の情を覚える礼拝です。復活は日常的な食事を通して教えてくれます。復活の主が司る聖餐式は、イエスが私達を取り、感謝を捧げ、砕き、送り出す、ことを示してくれます。さらに、復活の主のゆえに、私達は一個人として、他の信徒と共に三位一体の神の前に出て、洗礼を受け、自分のアイデンティティーを受けるのです。それは、「プロ」任せの信仰生活ではなく、聖霊に導かれるイエスのいのちを生きる成長の道なのです。
「私は、生ける者の地で、主の御前を歩き進もう」 詩篇116篇9節
