ルカ6:1-11

ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた。すると、あるパリサイ人たちが言った。「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」 イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、ダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。ダビデは神の家に入って、祭司以外の者はだれも食べてはならない供えのパンを取って、自分も食べたし、供の者にも与えたではありませんか。」そして、彼らに言われた。「人の子は、安息日の主です。」

別の安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに、右手のなえた人がいた。そこで律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。イエスは彼らの考えをよく知っておられた。それで、手のなえた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は、起き上がって、そこに立った。イエスは人々に言われた。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」そして、みなの者を見回してから、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、彼の手は元どおりになった。

すると彼らはすっかり分別を失ってしまって、イエスをどうしてやろうかと話し合った。

安息日の主

前回の学びで、イエスが「型破り」で「革新的」な行動を取ったことを見ました。取税人マタイを弟子加えたのです。今日の箇所も、「安息日」にまつわるイエスの行動は当時の律法主体で神のみこころを守ろうという者たちからしたら、ものすごく型破りだったのです。「イエスをどうしてやろうか」と話し合った、とこの箇所は締め括っていますが、平たく言えば、イエスを殺す作戦を練り始めた、ということなんです。それくらい大事な行動をイエスは取りました。

ルカがこの2回の安息日のエピソードで伝えているのは、安息日をどのように守るべきか、という説明や補足ではありません。ここでは、イエスは自分が何者であるのか、安息日という点から見てどんなお方であるのか、という点です。それは、イエスが「王なる」お方、そして「いのちを与える」お方である、という2点でした。

私たちが人生で体験する全ての出来事、思うこと、感じること、人づきあい、岐路の選択肢、全てにおいて、クリスチャンとして生きるということは、「人の子が安息日の主」と認めながら生きることです。神に全権があり、神は善きお方である、という揺るがない基盤の上に歩むのです。イエスは全てを知りながら、あなたのために、私のために十字架につき、聖霊を送り、豊かないのちを与えてくれているのです。

王なるイエス

「人の子は安息日の主です」とイエスは宣言しました。神様が天地創造の最後に宣言した安息日をも司る主権を持つ、と宣告しているのです。「人の子」はイエスが良く自分を指して使う言葉ですが、人の子が主権を持つことが旧約聖書ダニエル書で預言されています。当時の聖書に精通していたパリサイ人や律法学者達はもちろんそのコネクションに気づいていたでしょう。

「私がまだ、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」

ダニエル7:13-14

ダニエル書の7章以降はダニエルの見たこれから来るであろう救い主についてのビジョンが書かれています。上掲の箇所では「人の子」に主権が与えられている、と書かれています。イエスは自分は安息日をも司る全権の主である、と言うのです。神が全ての被造物を治める御座についた「安息日」の主、と言うのはまさしく自分は王なる、神である、と言っているのです。

パリサイ人や律法学者が、稲穂を揉んだり(律法を人間的に細かく定義すると「仕事」になるそうです)することは違反だ、と叫ぶ時、イエスは「ダビデ」は王として祭司用のパンを食べたことを用いて、人間の王より偉大な「人の子」がここにいる、と言うのです。

ダビデ王との対比

旧約聖書にはしばしばイエスの「型」「先がけ」のストーリーや人物が出てきます。それは天地創造〜人の堕落以降、神様の贖いのストーリーがイスラエルの歴史を通して紐解かれていたからです。

その「型」の一人として、ダビデ王が挙げられます。ダビデは王として、預言者サムエルからそのしるしである油注ぎを受けました。しかし、現職のサウロ王はそれを認めずダビデを殺そうと逃げるダビデに刺客たちを送ったのでした。ダビデは数人の腹心達と共に逃亡生活をしたのでした。なんと、少年ダビデが神から預言者を通して王として立てられてから、実際にイスラエルの王に即位するまで20年以上経ったのです。

イエスはどうでしょうか?イエスは待ち望まれた王でした。遠方の博士達が生まれたイエスを王として拝んだのですが、当時の王ヘロデからいのちを狙われました。イエスは人々から王として認められず、生まれ故郷を追放され、都合の良い御利益(ごりやく)的な奇跡を行う癒し主と考えられ、数人の荒くれた弟子達と3年以上行動を共にしたのです。

イスラエルにとってヒーローのダビデの言行を知らない者はいません。その彼と対比して、ダビデのような、しかしダビデを遥かに超える王がいる、と語っています。

イスラエルの人々がダビデ王を敬い、したった以上に、今日、イエスは私たちに、イエスは安息日を司る王であると語ります。安息日が神の主権の宣言日です。私たちの姿勢は「礼拝」でなければならないのです。

いのちを与える

神様のことを「コズミック・ポリス」と感じている人は多いでしょう。何か失敗すると、高速道路でスピード違反のネズミとりをしている警察官のように、「君は違反をしたね」って言うのが神様だ、と思っている人は多いです。「そんな生き方はダメだね」とレッテルを貼るのが、そして楽しい人生を「うつむきながら過ごす」人生にするのが神様だと考えるのです。

アルファコースのニッキーガンベルはこんなふうにアルファコース「どうやって祈るの?」の中で言っています。

「私はクリスチャンになる前は、神様って聞くと、それは独裁政権の独裁裁判官みたいに、そして全全天地の警察みたいなもので、いつも私を捕まえようとして見張っている、そんな風に考えていました。よく、「私は神を信じない、だって、神様は独裁者でお目付役みたいだから、」という人がいますが、私だってそんな風な神様は信じていません。」

Nicky Gumbel, Alpha Course, “How and What Can I Pray?”

イエスはルールブックを手にしているパリサイ人と律法学者にこう問います。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」これは修辞疑問文、つまり、疑問文の形をしていますが、答えは自ずと分かる仕組みの質問文です。イエスは、安息日にはもちろん善を行い、いのちを救うのだ、と言っているのです。修辞形によって強調しているのです。

当時のミシュナー(律法学者達の聖書の律法についての見解をまとめたもの)によれば、安息日に行うべきことかどうかを判断するリトマス試験紙は、それがいのちを守るものであるかどうかだそうです。イエスはここで、その基準を見据えた上で、「善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」と究極の問いかけをしたのです。

マイケルカード ”Luke: The Gospel of Amazement” )

するとパリサイ人も、律法学者もすっかり分別を失ったとルカは記します。イエスの型破りなところがおそらく彼らには耐えがたいことだったのでしょうか。

ルカはさらにこれから型破りなイエスの足取りを伝えていくのです。

補足

直接的にルカのこの場面では出てきていませんが、日曜礼拝の説教から教えられたことがここにも当てはまるので追加します。現代社会を見回すと、ニュースを見ればすぐに分かるのは、いかに世の中に暴虐や争いが満ち満ちているか、ということです。そんな中で(牧師の40分の説教を一言にまとめるのでいろいろ抜け落ちますが)私たちが常に覚えて置くべきことは、全てはイエスの十字架、復活を通して意味をなす、ということです。今日私たちクリスチャンに預けられているのは、神様が造られた全天地を回復する一役を担うことです。なんと、イエスの十字架と復活の故に、私たちには和解の務め、そして和解のことばが与えられていると聖書は明言しています。

「これらのこと(キリストの愛と信じるものが新しく造り変えられること)はすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」

コリント第二 5:18-19