いつの間に自分はこんな所を歩いているんだろう? 神様って今どこ?

読む前の要点:

  • クリスチャンである場合、心が神から離れ勝ちになってしまう事は頻繁にある事ですが、自分の経験の中で、どんな心の状態が自分を神から離そうとしたかを思い出せますか?グループのディスカッションの場であるならシェアができる度合いのものはありますか? 
  • 「神様はこうすべき」という自分の理想が破られると、人の心にどんな事が起きるとおもいますか?
  • 人は自身の思考をコントロールする事はできると思いますか? 

道を外したら

 

クリスチャンになってから一度として神を離れず、神に喜ばれる人生を全うする。だったら素晴らしいのですが、誰でもこの世にいる間は多かれ少なかれ、程度にも差はありますが、何らかの理由で道を外してしまう事があるのではないでしょうか?それが、神を離れた日々であったり、年月、又はそのまま人生の大半を歩んでしまう人もいるでしょう。そして、「ここまで来てしまったら戻れない」と多くの人は考えてしまいます。

人間が自由意志をもって離れる時、普通、神は介入なさいませんがとびら6 神からの独立 、戻ることを望み神に向かって歩み出すとき、神も再び歩み寄ってくださいます。* これは、神の変わらない愛であって、変わるのはいつも人間側なのです。今回は、その人間の弱い心に悪魔がどうつけ込もうとするのか、また人の心がどう変化するのかを考えます。そして、戻りたいと願う人に、神がどの様に指導しておられるのかと言う課題でこの「とびら」シリーズを閉幕します。

*ヤコブ書4:8

はじめの愛から落ちる?

ヨハネの黙示録の中でエペソと言う町にあった教会へ向けて、イエスキリストはいくつかの事柄に関しての賞賛の言葉を送られています。ところがその後、この悲しい忠告が渡されます。

「しかし、あなたには非難すべき事がある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、何処から落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改める事をしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれたところから取り外してしまおう。」

黙示録2章4-5節

この箇所では、イエスキリストは、クリスチャンとして道を外したならどうするべきかを教えてくださっています。(ここでは少し順序を変えましたが)

「何処から落ちたかを思い出して...」

自分で気が付く事は難しい場合が多いので、聖霊が助けてくださる様に祈る必要があるでしょう。人はいつ頃からどんな事を考え出し、どんな心の状態が自分を神から離してしまっているのか考える事が必要です。

悪魔という存在は人間の思考に語りかける事ができ、人を欺こうとします。それは、声として聞こえるものではありませんが、神に関する真実に逆らう思想を思い起こさせようとします。人間を神から離す事が悪魔の究極的な目的だからです*。エデンの園でイブを騙す時、悪魔は、「神は本当に~~と言ったのですか?」と言う質問を投げかけ、その次に大胆な嘘をつきました。** 今でも例の「神は本当に...」の手口と大胆な嘘***は変わってない様です。 「神は本当にそれでもおまえを愛しているだろうか?」「神は本当におまえを赦すと思うか?」「こんな事態が起きていても、神は本当に聖なる方なのか? 愛であるお方なのか?」と言う感じで問いかけ、「そうじゃないよ。実はこうだよ。」と言う嘘で人の心を迷いへと送り込もうとします。

 *Ⅰペテロ5:8 **創世記3:1-7 ***ヨハネ8:44

こう言った問いかけは、人を神から離す目的にとても効果的です。その訳はこうです。

神の聖さと全知全能さは人の思いを遥かに超え、神の情熱に溢れた無条件の愛は*、人間界の常識に完全に反していると言う事です。

人間は自分に罪を犯した相手を愛する事を「間違った事」とし、他人を愛する事にも多くの場合は条件的ではないでしょうか? しかし、神が人間の理解力の乏しさや人間が決める常識に縛られる事は一切ありません。**。そして、造られた一人一人の人間を、この上ない情熱で愛してくださり、それを十字架を通して証明してくださっています(とびら7 神の取った手段この様な形で、神の神性も愛も人間界の一般常識に反しているものです。 悪魔にとっては、その「人間の常識」を使って人を迷いに送り込む事は簡単に出来てしまいます。***。

*ヨハネ15:9 **イザヤ書55:8-9 ***エペソ2:2

「その燭台をその所から取り外してしまおう。」

想像できるでしょうか、イエスを愛さなくなった教会を?当然そこには聖霊の働きも無くなっていくでしょう。そして、ただの人間の集まりになってしまい、周りの世界に光を放つ事ができなければ、教会が教会ではなくなってしまいます。

個人のレベルでもそうです。もしイエスを愛する事が薄れていけば、ゆくゆくは聖霊の声に鈍くなり、明かりの無い暗い道を歩み、自らも周りを照らす事も無くなってしまいます。*

*ヨハネ15:5

「悔い改めて...」

「悔い改める」は反省の意味と方向転換の意味をも指します。 道を外した。何処から落ちたか思い出した。それなら次は正しい道に戻りなさい、すなわち、心の状態や考え方を正しなさいと言う事になります。一人ではできません。しかし、その気持ちさえあれば聖霊が助けてくださいます。

人は自身の思考の中で、神の真実というものが人間界の常識や状況、そして悪魔からの言葉以上の権威を持ったものであると理解する事が重要です。この事を聖書は、「思考をキリストの権威に従わせる」のだと語っています。

「私達はさまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ...」

コリント第2の手紙10章5節

神の言葉は絶対なものなので、「赦す」または「愛している」と言われたのであれば心が着いて来なくても、そうだと信じる決心をして神をもう一度呼び求める事が鍵なので、その後は聖霊が働いてくださいます。

怒り

あるいは逆の方向で、神に対しての怒りがあるならどうでしょう? 人間は、神を理解するにあたって、限りある能力と限りある知性の下で「神はこうするべきだ。」とか、「これでは神としての役割が果たせていない」とか考えてしまう事もしばしばあります。 全知全能であられる神の視点から物事を判断できないので、またしても人間界の「常識」が測りになります。そうしてしまう時、その人の思考は上のコリントの聖句の通り、「神の知識に逆らって立」ち神を裁くと言う高ぶったスタンスを持ってしまいます。そうなると、答えの出ない迷いの道をさまよってしまう事になります。なので、この聖句は、思考の中の高ぶったスタンスに操られるのではなく、逆にそれを捕らえ、とりこにしてキリストに服従させるべきなのだと語っています。十字架上で、その人の魂の救いの道を開いてくださったイエスキリストはその人にとって、怒りを明け渡すだけの価値のある方であり、真理であられ*、すべての事への権限を持っておられる方だからです。(とびら⑧ 神の取った手段)

*ヨハネ 14:6

心の傷、燃え尽き

神から離れてしまう理由として隅に置く事はできないのが心の傷や燃え尽きです。神は心が傷ついたり、燃え尽きたりしている人を裁かれません。* しかし、そんな場合には、自分を責めるのではなく、神の近くに留ることを心がけてください。そうでなければやはり自動的に間違った思考へと流れてしまうでしょう。神にしがみついていれば、神は心の癒しへと導いてくださいます。**

*イザヤ書42:3、マタイ12:20、ヨハネ11:33-35 **マタイ11:28-30

遅すぎない、遠すぎない

「もう戻れない」とか「赦されない」と言う考えでがんじがらめになってしまうなら、あの Ⅱコリントの言葉の通り、その思考を捕らえて「イエスキリストに従わせ」ましょう。それは、「自分の思考が持つ権威」を遥かに超えた権威を神の真実に帰す事なので、聖霊が必ず助けてくださいます。 結局のところ、そうする事があの「本当に?」と語りかけてくる悪魔の嘘の思弁を打ち砕く唯一の剣なのです。*

*ヤコブ書4:7-8

「遅過ぎる」も「遠すぎる」もイエスキリストの十字架には勝てません。神を愛し、神の権威ある言葉に信頼を置きながら生きる人生は、神との深い交わりを約束します。その交わりは、神がその人の人生に用意されている「最善」のとびらを開いていくものなのです。

「信仰の創始者であり、完成者であられるイエスから目を離さないでいなさい。」

へブル人への手紙12章2節