「4つの歌」 ルカ1章〜2章
- マリアの歌 1章46〜55節
- ザカリアの歌 1章68〜79節
- 御使い達の歌 2章14節
- シメオンの歌 2章29〜39節
イエス・キリストの誕生をめぐって4つの歌が記録されています。メロディーのついた曲ではなかったかもしれませんが、節を回して歌ったことでしょう。
4つの歌はそれぞれ、イエスの母マリア、バプテスマのヨハネの父ザカリア、天の御使達、そしてシメオンによります。
前回までに触れて来ましたが、当時の時代背景をみると、ローマ帝国からの弾圧や、ユダヤ教の指導者達の腐敗の中で、天の神を信じて生きている者達には苦しい時代だったことは間違いありません。また、旧約聖書最後の預言者の書から何百年も経過しており、メシアの到来を益々心から待ち望んでいたことでしょう。
そんな中、いとこ同士のマリアとエリザベスの両方に聖霊によって子供が与えられる、という奇跡が起きました。エリザベスはすでに高齢で子供を望む年齢はとっくに過ぎていました。おそらくティーンエージャーだったマリアは、まだ婚約の段階で赤ちゃんが出来る、という、しかも聖霊によって身ごもっていたのです。最初の歌は、マリアがエリザベスの元へ訪問し、挨拶をした時に歌われました。エリザベスの妊娠6ヵ月ごろです。
マリアの歌
ラテン語訳の聖書では、この歌の最初の言葉、「あがめる」をラテン語で「マグニフィカット」であることから、このマリアの歌は「マグニフィカット」と呼ばれるようになり、教会では良く知られる歌となりました。クリスマスの時期にこの曲をフィーチャーしているコンサートが多いです
あなたは、どんな時に我を忘れて無我夢中にお祝いの大騒ぎをしてしまいますか?試験に合格した時ですか?就職が希望の会社に決まった時でしょうか。私は高校受験に受かった時にあんまり嬉しくて一緒について来てくれた父親の背中をどやしつけてしまったことを覚えています。普段は絶対にしなかったことです
また印象深かったのは、2010年の冬季オリンピック・アイスホッケー男子決勝はアメリカ対カナダでした。最終ピリオドにアメリカが土壇場で同点にし、サドンデスの延長にもつれこみました。当時のカルガリー・フレームス軍のキャプテンだったイギンラからピッツバーグ・ペンギンズ軍のキャプテンであるシドニー・クロスビーにパスが渡りクロスビーが決勝ゴールを決めカナダが金メダルを手にしました。観戦していた者達はいずれも飛び跳ね、叫び、大歓喜に踊ったのでした。私もやった!と喜んだ一人でした
マリアの歌は喜びが溢れています。ホッケーで金メダルをとった以上の嬉しさですよね。それはやがて生まれる子がもたらす新しい王国を心に思ってだったのでしょうから。イスラエルの信心深い信徒であれば誰もが待ち望んでいた救い主がついに与えられた、という歓喜からだったでしょう
彼女に聖霊が示し歌った内容は神様の「あわれみ」です。その神は人知の及ばぬ王国をその「あわれみ」に基づいて築くと預言したのでした
この「あわれみ」はルカの福音書ではキーワードです。ヘブル語で「へセド」という単語の訳です。単純にかわいそうと思うという意味ではなく、契りを交わした相手に対して変わりない愛を無償に捧げる、という深い愛を表す言葉です。神が一方的にアブラハムと交わした契約を神様が遂行してくれる、そういう愛を表しています。ですから、受けるに値しない者達にも神は無償で愛を与えるのです。「51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、52 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。(1章51ー53節)」とある通りです。こんな逆さま王国はあわれみに基づく以外ありえないのです。そして当時の政情、状況を考えると何と心に喜びを与える預言だったでしょうか。
ザカリアの歌
神殿での奉仕の最中に御使から妻エリザベスが妊娠すると聞かされ、不信がゆえに言葉がでなくされてしまった、と書いてあります。そして妻が臨月となり、ヨハネが生まれました。親族一同は当然「ザカリア」と名付けようとしましたが、ザカリアは御使からの命令どおり「ヨハネ」と名前をつけようとしました。想像するとそのあたりの状況は滑稽に思えたりします。エリザベスは平然と「ヨハネよ」と言いますが、当時の女性のいうことはあまりすぐ聞き入れられなかったのでしょうね。ザカリアが一生懸命身振りをしてタブレットを持ってこさせ、そこに名前を書いた、というです。その時、彼の口は開かれたのでした。
するとまず彼の口からは神を讃め称える言葉があった、聖書は語ります。不信心だった祭司が信仰を成長させていたのです。
そして、彼は預言を歌ったのです。この歌にはやはり、キーワードとなる言葉がいくつも出てきます。「契約」「誓い」「あわれみ」などです。「あわれみ」は「契約」に基づく愛です。
息子のバプテスマのヨハネは、預言者イザヤが預言した、「荒野で語る声」と見なされています。彼はやがて救い主・メシアの到来を告げます。そのヨハネの生誕の際に、父ザカリアは、救い主は神のあわれみに基づいて現れる、と預言したのでした。
74節で「恐れなく、主のみ前に使えることを許される。」というのは、何とそれまでの礼拝の姿勢と異なるでしょうか。祭司として一挙一投足厳密に、しくじらないように、と「恐怖心」が根底にあった礼拝の捧げ方から、「めぐみのみ座に大胆に(ヘブル4章16節)」近づく礼拝が預言されています。それは平和の道に導かれて行くことになる、というのです。一歩間違えば「死」だったのが、「いのち、豊かないのち」をイエスがもたらしてくれることを預言しているように思えます。
そして最後に、彼の預言が、「いと高き所」「照らし」「平和の道」と言及したのはイエスの誕生の前触れとしか言いようがありません。
御使い達の歌
ルカの2章はよくキリスト生誕の書と言われています。クリスマスになるとこの箇所から日曜学校の子供達が劇をしますね。あなたも役をもらって演技したことがあるでしょうか?
イエスの生誕の際に近くの野で羊の夜番をしていた羊飼い達の所にまばゆい光と共に御使が現れたのです。救い主の生誕のアナウンスメントです。でもちょっと考えて見ましょう。イマジネーションを使って見てください。当時、羊飼いはまだ少年少女が中心で、社会的な立場は相当低かったです。旧約聖書のダビデ王の記事でもわかる通り、立派な、しっかりした兄弟達は家にいましたが、最年少の「ガキンチョ(わかりますか?)」だったダビデは羊飼いで野にいましたね。卑しい奴らだ、と思われていたわけです。でも、その「世界の救い主が生まれた」、という地球的・宇宙的ニュースは底辺層の羊飼いにもたらされました。
マリアの歌にあったように「低いものを高く引き上げる」のが神様の王国の特徴なんですね。救い主も飼い葉桶に寝かされています。なんと質素な、ハンブルな生誕でしょうか。それが「あなた方へのしるし」だと御使は言います。羊飼い達の喜びははかり知れなかったことでしょう。除け者にされていたのが、実はそれは高く引き上げられることになる、というのですから。イエスは後に、「貧しいものは幸いです。神の国はあなたがたのものだから。 (ルカ6:20)」と語ります。それを聞いた羊飼い達は「もう知ってるぜ」なんて思ったでしょうか。
ザカリアの歌の締めくくりに出てきた「いと高き所」「照らし」「平和の道」が、天の軍勢の歓喜の賛美の歌に歌われています。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
シメオンの歌
ルカは、シメオンを「この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。」と描写しています。これは旧約聖書で良く目にする言い回しのようです。聖霊が、この重要な出来事を、そして彼の歌を導きました。イエスの昇天と聖霊の降臨以前は聖霊はある特定の人物にある特定の目的の為に臨みました。この箇所もそのような特定の、特別の出来事でした。
聖霊に従い神殿でイエスと両親に出会うのです。彼はマリアが以前エリザベスの家で歌ったように、湧き出るように歌いました。それは聖霊から告げられていた救い主の到来を目の当たりにしたその喜びです。なんとシメオンは、救い主は「万民」の救い主で、異邦人の光である、とイエスがこの世の救い主であることを預言しました。これまで「イスラエル」を救うメシア、を待ち焦がれていたもの達にとってはこれは驚きだったでしょう。
イエスは人々の思惑や期待に沿ってくれる救い主ではなかった、ということがルカの福音書を通して紐解かれて行きます。行動を共にした弟子達ですら理解できず、最後までイスラエルをローマから解放してくれるのが救い主だ、と思っていた様子が伺えます。ルカの福音書に描かれるイエスがしばしば「理解されなかったメシア」と表現されるのも頷けると思います。
それを裏打ちするかのように、シメオンはこの救い主は苦しみを受ける、と暗示しました。マリアの心が剣で刺し貫かれる、というのです。我が子が十字架の蔑み、苦しみを受けるのを目にすることが預言されました。ルカはここですでに、その身を犠牲にする、呪われる対象とされてしまう救い主を記しているのです。
まとめ
最初の2章に出てくる歌はイエスの生涯・十字架・復活とそこからの「いのち」を描く神のストーリーの序章のようです。誤解された「メシア」のストーリー、そして弟子達との道のり(ジャーニー)が始まります。
参照している聖書の箇所
ルカによる福音書1章39ー56節
「39 そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。40 そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。41 エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。42 そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。43 私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。44 ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。45 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。49 力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、50 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、52 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。55 私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」56 マリヤは三か月ほどエリサベツと暮らして、家に帰った。」
ルカによる福音書1章59ー79節
「59 さて、八日目に、人々は幼子に割礼するためにやって来て、幼子を父の名にちなんでザカリヤと名づけようとしたが、60 母は答えて、「いいえ、そうではなくて、ヨハネという名にしなければなりません」と言った。61 彼らは彼女に、「あなたの親族にはそのような名の人はひとりもいません」と言った。62 そして、身振りで父親に合図して、幼子に何という名をつけるつもりかと尋ねた。63 すると、彼は書き板を持って来させて、「彼の名はヨハネ」と書いたので、人々はみな驚いた。64 すると、たちどころに、彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神をほめたたえた。65 そして、近所の人々はみな恐れた。さらにこれらのことを一部始終が、ユダヤの山地全体にも語り伝えられて行った。66 聞いた人々はみな、それを心にとどめて、「いったいこの子は何になるのでしょう」と言った。主の御手が彼とともにあったからである。67 さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。68 「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、69 救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。70 古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。71 この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。72 主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、73 われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、74 75 われらの敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。76 幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、77 神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。78 これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、79 暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」」
ルカによる福音書2章8−14節
「8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。2 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」」
ルカによる福音書2章25ー35
「25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。26 また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。27 彼が御霊に感じて宮に入ると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、入って来た。28 すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。30 私の目があなたの御救いを見たからです。31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」33 父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。34 また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対のしるしとして定められています。35 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」」