時代背景
ルカ2章1節「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。」
皇帝アウグストの時代に人口調査があった、と聖書はさらりと述べていますが、当時の人々にとっては感情を揺さぶられる表現です。単に聖書の記述年代を絞り込める情報である以上に、アウグストの名前は当時の世界にとって大きな意味がありました。アウグストは有名なジュリアス・シーザーの養子としてローマ帝国の皇帝となったのです。しかもローマはそれまでの共和制から血みどろの内戦の後、アウグストが帝国制を樹立したのです。
ジュリアス・シーザーはローマ政府から「神」である、と宣言されました。息子のアウグストは「神の子」と呼ばれました。アウグストは巨大な権勢を用い、兵力を蓄え、神の子である自分を崇拝する引き換えに、ローマ帝国は市民に「安全」と「平和」を約束したのです。後にパックス・ロマーナ(ローマの平和)と呼ばれる時代の先駆けとなりました。 この安全と平和はローマ帝国の強大な兵力、完膚なきまでの権勢によって成り立っていたのです。
ルカの福音書が「皇帝アウグスト」と記述したことは、従って、天地がひっくり返っていた時代、権威がモノを言う時代、ローマ皇帝が神とあがめられていた、そういう背景をたちまちかもしだしているのです。
アウグストの後継者チベリウスですが、当時の政府高官たちによるとなんとも最も陰鬱な人物だったということです。いつも憂鬱で、否定的で、悲しげでした。 彼はもともと皇帝になるはずではなかったのですが、アウグストの他の息子はみな死んでしまったため、やむなく皇帝として後継ぎになったのでした。 彼の治世の終わりには隠居同然の生活をし、カプリ島に引きこもり、そこで豪奢をつくし淫蕩の限りが行われていました。帝国は闇の時期を迎えていたのでした。
イマジネーション
こんな時代背景に、帝国の東の果て、さらに辺境の地ガリラヤ地方でルカのストーリーは紐解かれて行くのです。ぜひイマジネーションを働かせてみて下さい。ユダヤ人達がなぜイスラエルを解放してくれる救い主を待ち焦がれていたか、ローマ帝国は外敵からの安全保障と平和を約束しましたが、内実は権力を持つものが不正を行い、富を蓄え、不法がまかり通っていたのです。社会における不公平は日常茶飯事だったでしょう。流通硬貨を手にすれば直ちに、その刻印、肖像、デザインによって、自分達はアウグストを神の子として崇拝するべきだ、と読み取れるのです。
ルカはそんな時代に忠実に神の宮に仕えるザカリヤ、妻エリザベス、いとこのマリア、いいなずけのヨセフを紹介します。ルカは、のけ者扱いされる者に特に目を向ける傾向があるように思われます。 エリサベツは子供を産めない女として恐らく周囲から白い目で見られ続けて来たでしょう。イエスの母マリアは突然妊娠してしまい、婚約者からは密かに婚約解除されようとしていました。ザカリヤの宮での祭司としての役割は地味でした。決して信仰の巨人でも無く、み使いと遭遇しても不信仰さがゆえに声が出なくされたりしました。 彼らは到底権威のあるもの達とは言えませんでした。
イエスの誕生の記事をみても、たしかにダビデの末裔でありながら、ベツレヘムではまともに宿泊出来る場所は与えられず、マリアは赤ちゃんを飼い葉おけであやしたのです。しかも最初の訪問客は当時でも身分が最も低かった羊飼い達でした。
ルカの描くコントラストは明らかです。 イエス・キリストは「神の子」です。しかし当時の世の中は、帝国皇帝が「神の子」なんです。イエスの生まれた世の中、彼の生誕を見る時、このコントラストの皮肉さは明らかです。
この世のデフォルトは、社会の主流にある者はよい生活を受け、周縁・のけ者になっている者たちにはよい生活を受ける価値が無い、と語ります。しかし、福音書を通し神様が語っているのは、受ける価値のない、愛される価値の無い、そういう者達に与えられる無償の愛、その愛です。それがまずこのコントラストにおいても明らかにされて行きます。
ルカの福音書でのイエスと弟子たちの旅の道のりには常にこのコントラストが底流にあると思います。神の御国は人の思いとは正反対で、イエス・キリストは人が思うような王では無い、この世の平安は帝国の権勢による平安ではない、イエスの救いは帝国の安全保障とは違う、ということが随所に現れて来ます。 ルカはこのコントラストの両極の間に立って私達がイマジネーションを発揮してイエスのことをより深く知るための助けになってくれています。彼は神様の世界と、私達の現実との架け橋なんです。
権威とへりくだり
ローマの圧政にあったユダヤ人たちは神様がイスラエルを解放してくれる救い主を心から待ち望んでいました。ローマが帝国となり、皇帝が「神」と宣言され、益々そのような大きな権力、兵力を持つローマを倒してくれるような力のある救い主、を待っていたことでしょう。しかし、神様のご計画は全く正反対に見える、つましい、帝国の辺境の地で、貧しい生まれ方をする方が、救い主として生まれたのです。 後に使徒パウロはイエスについてこう告白しています。
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。 (ピリピ書2章6~8節)」
数年前になりますが、「現代の世界観に隠された嘘」を教会で学びました。世界観は、常にクリスチャン達を神様から遠ざけています。何気ない生活をしていると目に見えてこない、そんな嘘が世界観には蔓延している、という学びでした。その一つのセクションで、社会通念におけるリーダーシップ、勢力、権威について学んだ時に、牧師がこんな絵画を紹介してくれました。Henry Ossawa Tanner のThe Banjo Lesson という絵です。これはすぐに私のお気に入りとなり、スクリーンセーバーになっています。
牧師は、クリスチャンとしての「権力・力」はこの絵の中のおじいさんのようであるべきではないだろうか、と言うのです。私も賛成です。世の中の教えは、リーダーとして力をつけ、どうしたら相手を言い負かせるか、相手より強くなれるか、より良く・より高くが常に最善である、と教えます。しかし、イエスは仕えるためにこの世に来た、と言います。真の力は、決して上から目線や、権威によって相手を上回り、服従を促すのでは無いですね。相手が繁栄出来るように助け導くこと、支えること、影から教えることでは無いでしょうか。 イエスが復活し、昇天した際に約束した神の御霊は実に、「寄り添う者」とも訳せる言葉で言い表されています。天地を創造し、今も万物を生かし給う神様が「寄り添う」のが神様のやり方だと思います。
イエス・キリストの弟子たちは、「最後の晩餐」の席で、何と自分達の中で誰が一番偉いか、と言い争いました。そこでイエスはこう語りました。
「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。」 ルカの福音書22章25節~26節
こうしてルカはさらに、この天地ひっくり返りの神の御国をイエスと弟子たちの歩みを通して語って行くのです。