高校3年生の夏に友人たちと八ヶ岳縦走をしました。山岳ガイドの指導とリードのもとでした。赤岳という険しい山から入り、最後は蓼科山から下りました。ボーイスカウトでのハイキング、テントを張って野宿をすることには慣れていましたが、真剣な登山は初めてでした。夜中の3時に崖のような山肌を鎖のはしごや急な傾斜の階段を登り、赤岳の山頂で見た日の出は今でもその感動とともに心に焼き付いています。尾根を進んでいると遠くにあった黒雲がどんどん近づき、雷に襲われたこともありました。20キロ以上ある重い「しょいこ」を背負って、全速力で避難所に走りました。水より(雨水ですが)安価なビールをみんなで回し飲みして嵐をしのぎました。今でもはっきりとその時のことを覚えています。劇的な、心に強く残る体験ですね。

山登りは敢えてやりたいとは思いませんが、その時のようなスゴイ経験はしたいなぁと思うこともあります。

なんでそんな話をしているんだ?と思われますよね。実は先週の教会の説教の中で牧師の言葉から想わされたことに関連するからです。英語でマウンテントップ・エクスペリエンス、「山頂での経験」という単語を使いました。大きな感動をする体験、それはまさしく山頂で体験する眺望に感動するような体験だ、という意味でしょう。天にも昇る気持ち、ですね。私は自分の登山の体験をすぐに連想しました。

クリスチャンライフでそんな体験を次から次へと出来たらいいんじゃない、と思いますよね。でも牧師はこう言ったのです。

“There is no shortage of spirituality that promises you a mountain-top experiences. That’s where our hearts are so tricky. We can be so spiritual and we may miss Jesus.”

「必ず山頂の体験のような感動を与えてくれる霊的な事物には事欠かないですが、そこに私たちの心の弱さが現れます。私たちはあまりに霊的になりすぎて、肝心のイエス・キリストを見逃すことがあるからです。」

– David Wood, The Danger of Do-It-Yourself Religion

つまり、スピリチュアルな生活、経験をしたいと願えばいくらでもそういう経験につながるものはある。それらを追求すれば確かに感動や興奮を得られるでしょう。でもそれ自体が目的だろうか、と語るのです。この説教のベースになっているのは新約聖書コロサイ書2章の次の箇所です。

「そういうわけですから、食べ物や飲み物のことで、あるいはユダヤ教の祭り、新月の儀式、安息日の決まりを守らないなどという問題で、だれにも批評させてはいけません。 それらは、キリストが来られる前にだけ有効であった、一時的な存在にすぎないからです。つまり、キリストという本体の影でしかなかったのです。 天使への礼拝を拒否する時、「今に罰があたるぞ」などと相手に言わせてはなりません。彼らは、幻を見たと言って、正当性を主張します。この、謙遜だと自任しているが高慢な人々は、実に想像をたくましくしますが、 彼らはキリストにつながっていません。しかし、キリストの体を構成する私たちは、キリストをかしらとして結びついています。私たちは、関節と筋肉によって互いにしっかり結び合わされ、神から養分と力とをいただいて成長するのです。」

コロサイ人への手紙 2:16-19  (リビングバイブル)

コロサイ書の筆者である使徒パウロはここで、「本体と影」という言葉で何が私たちの信仰の中心であるべきか、を説いています。影を追っていると、肝心の本体を忘れる、というのです。本体はかしらであるキリストで、私たちはキリストのからだです。影からは養分と力はもらえません。本体のキリストにしっかりと結びつかねば本末転倒になるのです。

「 あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。それは人の言い伝えによるもの、この世の幼稚な教えによるものであって、キリストによるものではありません。キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。 」

コロサイ人への手紙2:6-9 (新改訳聖書)

私達のこころは弱く、しばしば「山頂の素晴らしい経験」を追い求め、イエス・キリストを見逃し、聖霊の語る言葉を聞きそこないがちです。影ではなく自分を救い、暗闇から光の中の人生に導いて下さったイエス・キリストに根をはってください。牧師は、「聖書を読み、祈り、信者と集う」、というありきたりに思える活動が重要だと励ましてくれました。