見失っていたイエスを見つけた者達

1.少年イエスを見失った両親 (2章42~50節)

イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習に従って都へ上り、祭りの期間を過ごしてから、帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれにきづかなかった。  イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを行った。それから、親族や知人の中を捜し回ったが、見つからなかったので、イエスを捜しながら、エルサレムまで引き返した。そうしてようやく三日の後に、イエスが宮で教師たちの真ん中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。  聞いていた人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。 両親は彼を見て驚き、母は言った。「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」  するとイエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存知なかったのですか。」  しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった。

ルカ2章42〜50節

今はもう時効だと思うのでシェアしますが、1970年に大阪で国際博覧会がありました。両親は私と弟を連れて行ってくれました。まだ小学生の私達は万博会場で迷子用の名札をもらったのです。両親はちょろちょろする子供達がいなくならないように注意していたと思うのですが、弟は勘違いして別の大人に親だと思ってついていってしまい迷子になりました。科学博覧会だったので当時では画期的な(今では当たり前になりましたが)テレビ電話を使い迷子の子と親がデジタルに対面できるシステムがあり、母と弟がそれで会話したと後で聞きました。弟が見つかってよかった、という気持ちより、羨ましいと思ったことでした。両親はもちろんテレビ電話が出来て嬉しかった、などとは思わなかったでしょう。何より見つけられて良かったとホッとしたことでしょう。私も親になってそんな気持ちも理解出来るようになったと思います。

だから、マリアの「なんで親の私達をこんな目に合わせたの」というトーンも理解出来ます。普通なら子供も謝って(弟はそうしました)親子仲良くハッピーエンド、でしょうが、イエスは「どこにいるか知らなかったの」と答えるのです。両親は「?」。。。これが福音書のトーンを決めたのです。イエスは人から理解されないメシアとして紹介されたのです。

「イエスがいなくなったというより、私達がイエスを見失ったのです。」

“Jesus is not missing, but we have lost sight of him.

神学者の N. T. Wright 先生は「イエスがどこかにいなくなってしまった、というよりも私たちがイエスを見失ったのでは」と問いかけます。それは「?」となる理由がイエスの不在によるというより、私達の誤解、思い込み、思い違い、理解のなさ、によって、イエスが見えなくなっているのでは、という問いかけです

イエスが公的に宣教を開始し、弟子達が集まり、教えや奇跡の数々を行ったのですが、その中核にいた弟子達ならきっと「?」という場面は少ないのでは、と思いきや、ルカの福音書では常に人々が「驚いた」とあります。「?」の連続だったでしょう。

ルカの福音書の最終章24章ではイエスが復活された後弟子達の所に現れる記事が出てきます。そこでも繰り返されているのは「知らなかったのですか」というイエスの言葉でした。数年行動を共にし、教えを直接受けてきた弟子達ですら、またもや「?」の状態だったのです。

2.エマオの道を行く二人の弟子達 (24章13〜27節

「ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエオマという村に行く途中であった。そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけがしらなかったのですか。」イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに解き明かされた。

24章13〜27節

ルカの24章には二人の弟子達がイエスの十字架刑の後、打ちひしがれて、心を取り乱したまま自宅に戻る道中の記事が出てきます。イエスを見失った二人と言えるでしょう。彼らが再びイエスを見出した時(イエスが彼らの目を開くのです)初めてイエスが天の父のみわざを果たすためにこの世に来られ、十字架にかかり、そして蘇ったと悟ったのです。

現代を生きる私達は当時の弟子達にはなかったものが与えられています。それは完成した聖書と聖書に啓示されているイエスの約束する聖霊なる神が信じるもの達に宿っている、ということです。その聖霊の働きによって私達は神様を知ることが出来る、と聖書は教えてくれます。しかし、私達は完全とされているのではないので、福音書に出てくる人物達と同じように「?」となってしまうことが多々あります。

問:次の空欄を埋めよ。「救い主とは___である。」答:「えっ、____じゃないの?」

イエスの時代の文化背景は以前にもシェアしましたが、ローマ共和国が帝国制に代った時期です。皇帝シーザーが自分を神である、と宣言し、息子アウグスト王は「神の子」として君臨し、「ローマの平和」・繁栄を約束する代わりに絶対服従を要求したのでした。その圧政の中、ユダヤの王ヘロデを初め、指導者達はローマ政府におもねり、堕落し、また役人達は民から搾取の限りを尽くしたのでした。「救い主」の現れを民は心待ちにしていたのでした。

そんな中にイスラエルの預言者を代表するものとも言えるバプテスマのヨハネが救い主の到来を告げたのです。圧政にあえぐ民は間違いなくローマを倒し、イスラエルを解放する救い主を期待したことでしょう。しかし、天の父なる神様のご計画は御子イエスに託され、イエスの道は十字架の道であったのです。イエスの母マリアも理解出来ませんでした。イエスと共に数年を過ごし、教え、数々の奇跡に触れてきた弟子達も理解出来ませんでした。

N T Wright は「イエスが私達の携わっていることにいつも一緒に関わっていてくれている、と決めつけるのは間違っています。主がおられない、と気づいたら直ちに主を探し求めねばなりません。祈り、聖書を読み、聖礼典において、探し続けるのです。ただし、イエスが見つかった時に彼が私達に語ること、示すことは私達の予想しない内容であると心得ておかねばなりません。イエスは天の父のみわざに励んでおられるのです。私達もそうせねばなりませんね。」と語ります。(Luke for Everyone)

現代に生きる私達は「救い主」に対してどんな期待を抱いているでしょうか。その私達の思い込み、期待、それが誤解や「?」を生んでいるのかもしれません。聖書を読み進めるにあたっては、どうか祈り、心を開き、イエスのいる所にいってみるべきです。イエスに「こっちにどうしていないの?」というのは間違った問いかけです。イエスはすでに共にいます。しかし私達のアジェンダ、期待通りに行動してもらおう、というのは誤りです。「知らなかったのですか?」と言われてしまうのです。

旅路:ルカの福音書のテーマ

ルカのまとめたイエスのストーリーのモチーフの一つは旅です。エルサレムの宮は重要なチェックポイントです。1章では宮でザカリアに出会いましたね。2章ではおきてに従い両親が赤子イエスを宮に連れてきます。そこでシメオンとアンナに出会いました。そして少年イエスは宮でユダヤの教師達と話し、質問をかわしたりしていました。イエスが後にカペナウムで宣教を開始ますが、ルカの福音書の半分以上はエルサレムに向けて歩みを進める中での教えや記事なのです。ルカの福音書には多くの旅路にまつわる動詞や単語が出てきます。

当時のローマが「Via Romana ローマの道」として街道筋を整備しており、全ての道はローマに続くなどと言われていました。それと対比されているのは、イエスの道は「Via Crucis 十字架の道」なのです。イエスが歩んだのは十字架を目指す道でした。いよいよ公衆での伝道が始まります。「ベルトを締めて」アクセル全開で(でも注意を払いながら)イエスと歩む道中へスタートです。