毎日読んでいる日々のデボーションの本に、「もっと生き生きと」と言うタイトルの書かれた日がありました。もっと豊かな人生、もっと充実した生活、もっと生きがいのある人生、と言う感じでしょうか
イエスは「いのち」を、「豊かないのち」を与えるために来た、と次のように語っています。
「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」
ヨハネによる福音書10章10節
「羊」は私達のことです。なぜなら、イエスは自分を「良い牧者」と語っているからです。盗み、殺し、滅ぼそうとする敵から守ってくれるだけではなく、イエスは豊かないのちを与えてくれる「善き羊飼い」なのです。
そのデボーションには、こう書かれていました。(要約します)
「ローマ帝国は、美しい建物が建てられないのであれば大きい建物を建てたと言われている。現代もしかりで、上手くいかなかければ大きくすれば良い、と言うのが常だ。生活も同様で、もっと収入を、もっと大きな家を、もっとスケジュールを埋めよう、と言う具合に。しかしこれでは生活の質は下がるのみである。心がけるべきは、大衆の流れに沿うのでは無く、自分の人生を神様の声に応答して捧げることだ。すると人生がその分豊かになり、もっと人間らしく生きられる。世の流れに流されず、信仰の歩みをコツコツとすることでもっと豊かに生きるのである。」
“More Alive” – May 21 from “God’s Message for Each Day” by Eugene Peterson
「神様の声に応答し、自分の人生を捧げる」とピーターソン先生は語っていますが、そもそも神様の声を聞くのもクリスチャンにとっては一大事です。もしかしたら、敵の誘惑にそそのかされて、スポーツカーを買うのがみこころだ、なんて誤解したら大変です。(でも、それが本当にみこころである事も時と場合ではあり得ると思いますが)
なんでもかんでも大きいのが悪い、と言うのも短絡的な考えでしょう。そうこうしているうちに、「私の生きる上での神様のみこころは何だろう?」と考えれば考えるほど結論が出せずに、立ち往生してしまいかねません。
一つのヒントは、「いのちに繋がるかどうか」考えることだと教えられました。イエスがいのちを、豊かないのちを与える、と言っていることと、毎日の信仰に基づく生活の上での行動は二律背反するのはおかしいです。ですから、何か聖霊によって心に浮かぶ行動があれば、それが本当に聖霊からか、自分の密かな欲求なのかを、「いのちに繋がるかどうか」で測ることが良いのではないでしょうか。
ピーターソン先生はそのデボーションの元になる聖書の箇所を次のところから選んでいました。
「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」
エペソ人への手紙4章24節
この聖書の箇所の少し前から、リビングバイブル版ではこう書いています
「しかし、キリストが教えてくださった生き方は、全く違います。 もしあなたがたが、ほんとうにキリストの声を聞き、キリストについて真理を学んでいるなら、 古い邪悪な性質を捨て去りなさい。古い性質とは、以前のあなたがたのように肉欲に惑わされ、滅んでいくような生き方です。 あなたがたの態度や考えを一新しなければなりません。 あなたがたは、神にかたどって造られた新しい人になるように、新しい性質を身にまといなさい。」
エペソ人への手紙 4章20-24節