パリサイ人、ニコデモ

イエスが過ぎ越しの祭りの間エルサレム付近で宿泊していた場所に、ニコデモという人物が訪れます。 彼が「パリサイ人」の一人であったと記されていますが(1節)、彼らは新約聖書にしか出て来ず、一般的にあまり良い印象は残されていません。 どちらかと言うと「悪役」っぽく描かれている彼らは果たして何者だったのでしょうか?「パリサイ人」とは人種の名を指すのではなく、また職業でもありません。 適切ではないかも知れませんが、一番近い言い方をすると、一つの政党、もしくはクラブの様であったかも知れません。「神がモーセを通して立ち上げた律法をとことんまで守ろうではないか」と言う考え方で、元々は良い志から動き出した活動だったとも言えます。その中の多くの人達は何らかのビジネスマンだったりと出世した人達が宗教指導者としても活躍していて、一般人から敬われていました。 ...が、イエスのパリサイ人への批判は厳しいものでした。 彼らは、律法に加えて多くの仕来りを数多く作り出し、それらをも必ず守るべきだとして一般人を圧迫し、神の御心を探る事よりも自分達の身分や地位を重視していた事から、イエスから偽善者だと指摘されていました。 

ニコデモの探究心

大半のパリサイ人はそんな風だった様ですが、中には真剣に神を追い求めていた人達もいた様です。 今回、3章に出て来るニコデモさんも、その一人だったようです。彼がイエスに会いに行ったのが夜だった事から、イエスを敵視していたパリサイ仲間の目を気にしていた事が推測されています。この時点ではおそらくニコデモはイエスがキリストであると言う確信はなかったようです。とにかく、イエスの奇跡や権威あることばから、イエスが神から送られて来た「教師」であることへの確信はあった訳です。 そのイエスをもっと知りたいと願う探究心から仲間の目を盗んで出向いたのですから、イエスはそのニコデモの心を尊重して彼の為に時間を割いてくださったのでしょう。

イエスからの呼びかけ

2節から始まる彼らの対話は出出しから噛み合っていないように思える場面ですが、人の心も人生も全てをご存知であられるイエスはいつもの様に相手にとって一番重要な課題を指摘されていたのでした。パリサイ人として「神に受け入れられる清い生活」を追い求めて生きていたニコデモは、この時点では、イエスは「神から送られた教師」と言う存在と言う理解で留まっていて、イエスが実にキリストであると言う認識はなかった様です。 しかし自分の限りある知識の中でイエスをもっと知ろうとしているニコデモに、イエスは彼が一番必要としている魂の救いについて話されます。「行いが先に来るのではなくて、神の国の一員として生まれ変わる事がなければ、天国に入る事はできないよ」と言う内容の話です。

 ニコデモさんは、どうもこの話を文字通り受け止めたのでしょうか、次の様な戸惑いの質問を返します。

「人は老年になっていてどのように生まれる事ができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれる事ができましょうか。」 4節

そこへ、イエスはもっと具体的に話されます。

「まことにまことにあなたに告げます。人は水と霊によって生まれなければ神の国に入る事はできません。」5節

「水」?

「霊」とは聖霊の事だと言うことは、理解し易いものですが、「水」というのが気にかかりますね。 この「水」とは、どうやら神のことばを意味していると言う解釈が一般的なようです。 「水」は何かを清める為にも潤わせる為にも使われます。 神のことばもそれと同じように、人の心を聖め、また潤します。 そんな風に、聖書の中で、神のことばは「洗うもの」、「清めるもの」と言うコンセプトで例えられてもいます。 (詩篇119:9、ヨハネ15:3、エペソ5:26、等)確かに神のことば(現代なら主に聖書の言葉)に出会う事は救われる事に重要な一歩である事は確かです。 そして6節では、人は肉体をもって生まれてくる時とは別に、霊をもって再び生まれなければならないと意味しています。 一人一人の中にあるその人の霊は神のことばを信じて受け入れる時に聖霊と交わる新たな命を受けて生まれ変わる事ができます。 

目に見えない「風」

人の魂の生まれ変わりのプロセスの中で、神のことばや聖霊の働きがどの様にその人の心を動かすのかは、目に見えて確認はできるものではありません。 しかし、その人の心や生活が変わるという変化なら周囲の人が見る事もできます。 その現象は8節では、目に見えない風が木や花を揺らしながらその存在を露にする状態に例えられているようです。

イエスの神性

それでも理解できていないと言うニコデモに(9節)10節でイエスは「教師でありながら」とたしなめます。 それは、理解ができないのとは一線ちがって「受け入れていない」のだ言われます。人間は受け入れたくない事を理解できないものと決めてしまう事があるようです。

「...わたしたちは、知っている事を話し、見た事を証しているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。」11節                      

この時なぜ「わたしたち」と言う言葉を使われたのか、三位一体の神からの立場で語っておられるのではないでしょうか? 神からの視点でしか見る事ができない人間の魂の生まれ変わりのプロセスを話したのに、あなたはがた(パリサイ人たち)は受け入れていないと言う警告だったのでは?「風」と言う地上のもので例えを話したのに分からない、受け入れないのであれば、有りのままを話してもなおさら分からないだろうと。(12節)

神の愛

13節から、イエスは御自身が誰である事と何故この世に来られたかの真相に入ります。ニコデモにとって、「神のもとから来られた教師」ではあっても、イエスがまさか神の御子であられ、キリストであられるとは思っていなかった事をイエスはご存知だったのですね。 御自身が天から下った「人の子」(人としてこの世に来た神)であると宣言し、いずれ来ようとしている十字架(上げられる 14節)は、「信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つため (15節)」だと語られます。 (モーセと蛇の話はやがて来ようとしていたイエスの十字架を映し出していて、民数記21:4-9に書かれてあります。)

そして次の「ミニ聖書」とも呼ばれている、有名な言葉がこのヨハネ3章の16節です。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

ヨハネの福音書3章16節

イエスキリストがこの世に来られた究極的な目的は、その名を受け入れる人達の罪を赦すために、御自身が身代わりとなって死なれる為でした。 それがいずれやって来る十字架刑と言う形で実現したのです。 ここに神の人間一人一人に対する計り知れない愛が表れてはいないでしょうか? これが聖書の中心的なメッセージなのです。

このイエスとのやりとりの後、ヨハネ伝の中でニコデモさんがもう二回登場します。その時の彼の言動はイエスを慕っていると伺えるものです。 この時、探究心をもってイエスと語り合った事で生まれ変わる事ができたのだと推測できないでしょうか。

適用

あなたは、神の家族の一員として生まれ変わっている確信はありますか? イエスが自分の救い主だと信じますか? まだそこに達していなければ、ニコデモの様に自分にある限りの理解と探究心をもってイエスを探る事はできますか?