教会の礼拝堂のイメージはちょっと暗めで、ステンドグラスがあって、静かで、っていう感じでしょうか。私の住んでいるところから車で1時間ほど行くと、ウエストミンスター・アビー(寺院)というベネディクト会の修道院があります。地元ではミッションという地域にあるので、アビー・イン・ミッションと呼ばれています。部外者でも敷地内に入れます。綺麗なガーデンや見晴らしの素晴らしい高台があります。その大聖堂にも見学出来る時間があるので中に入ってみたことがあります。その大聖堂は(写真)荘厳としていていて、静かでした。また、教派・教会を問わず、聖職者の訪問を歓迎していて、私たちの教会の牧師達も何度か「黙想」と祈りのレトリートに行っています。日常の喧騒から離れ、神と交わる平安と静けさの時を求める方々が多く訪れています。

Westminster Abbey (westminsterabbey.ca/visit)

以前にこのブログで「レクチオ・ディヴィナ」を紹介しましたが、神様の前に静まって祈るのには静けさが必要です。


私たちの教会は現在併設の建物を新築中です。オフィスにはすぐ目と鼻の先で行われている工事現場のノイズが工事が始まってからここ2年ほどひっきりなしです。工事の初めには地面を深く掘り下げ、パイルドラーバーが何箇所も打ち込まれ、またしょっちゅうブルドーザーが目の前で動いていたり、ドリルやコンクリートを打つ音、振動など朝から午後まで続きます。でもこのノイズは歓迎です。何もノイズが聞こえて来ないのは作業が止まっていることですから。この工事のノイズは完成に向けた一歩一歩を表しているのです。

でも、同じノイズを聞いていても、もしかしたら通りがかりの人や、大通りの反対側に住んでいて教会とは一切関係の無い人たちからしたらうるさい騒音だと思うでしょう。

そんなことを考えたのはこんなメッセージを今朝読んだからです。いつものように私の拙訳付きです。

「どうやら両替商人のノイズは問題なかったようですが、彼らは(パリサイ人)子供達の出すノイズは耐え難かったのです。カランカランという商売の音にはすぐ耳が慣れてしまうのに、子供達の叫ぶ声には短気を起こすというのは一体どういうことでしょうか?私たちもそうなのでしょうか?」”The noise of the money changers never, apparently, had bothered them, but the noise of children was intolerable. How could they become so quickly accustomed to the clangor of commerce and be so short-tempered with the shouts of children? How can we?

“Praying the Message of Jesus” Eugene Peterson, June 17

Euguene Peterson のデボーショナルの場面背景はこうです。 この場面は人々の「ホサナ!ホサナ!」と褒め称える人々の中を通って、イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入ったのち、宮の中でアコギな商売をしていたもの達を追い出した後の出来事です。イエスは、旧約聖書イザヤの言葉を用いて、「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」(マタイ21:13)と言って宮を清めました。そして、イエスが人々を癒していると、子供達は、「ダビデの子にホサナ」と言って叫んで走り回っていたのです。すると、祭司長と律法学者たちはそれを見て「腹を立てた」と書かれています。

イエスはどう答えたでしょうか?

イエスは言われた。「…『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。

マタイ21:16

この言葉は祭司長と律法学者にはすぐにピンと来たはずです。これは詩篇8篇からの引用です。

「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。」

詩篇8:2

「力」という単語と「賛美」という単語の語源は同じですが、新約聖書がギリシャ語から旧約聖書がヘブライ語から翻訳されたので異なる単語として訳されているということです。(Charles H. Spurgeon’s Treasury of David)

イエスは、祭司長や律法学者が「ノイズ」と言っている子供達の叫び声、その声を通して、天地の創り主がその力を宣告し打ち建てた、と語るのです。祭司長や律法学者は自分たちの権益と慣習という「ノイズ」に浸かりすぎていて、神様の言葉を聞き逃していたのです。「世界の人々のための祈りの家」であるはずの宮が金儲けの商売の場所になっていることに鈍感になるほどです。

クリスチャンにとって、「ノイズ」は何でしょうか?それは本当に「ノイズ」でしょうか?それとも神様がその栄光を現そうとされている言葉や行動ではありませんか?イエスの声を聞き逃さないために私たちはどうしたらいいでしょうか?

偽札を見分ける一番の手立ては常に本物に接することだそうです。陳腐なようですが、聖書を読み、心を静めて神の前に祈る時間を持つことが肝要ではないでしょうか。必ず聖霊が周りの「ノイズ」を突き抜けてイエスの言葉を語ってくれますから。