私たちの通う教会にはいくつかのグループが地元の老人ホームを訪問する奉仕をしています。私と家内もそのようなグループの一つに参加していて毎月一度30分程度の賛美とみ言葉を20人ほどの利用者の方々とシェアしています。
私たちの訪問するホームには「館、邸宅」という名前がついています。大きな家にいくつも部屋がある、というイメージでしょうか。そこの多目的ホールを利用して賛美歌を歌い、み言葉を読み、メッセージをシェアしています。
介助が必要で、体の動きがままならない方々が多いのですが、ニコニコしてくれたり、一生懸命歌ってくれたりしてくれるとこちらが励まされるのです。
聖書のこんな箇所を思い起こさせられました。使徒パウロはローマの獄中で様々な教会に向けて励ましの、激励の書簡をしたためました。機会があればいつもイエス様のことを伝え、常に感謝の気持ちを持っていました。そんなパウロの一言です。そんなパウロは一人では信仰は生きるものではない、と説明しています。信仰は人と共有し、ともに歩む、ことです。
パウロはわたしから見ると何とも信仰に篤く、数々の迫害も乗り越えてきた信仰のヒーローみたいな方ですが、そのパウロも、「なんとかして早く来てください」とテモテに書簡を送ったのです。
あなたのまわりに、誰か「早く来てください」と呼びかけている人がいたら、ぜひ行ってあげて下さい。そこには必ず主の恵みがあなたと共にあるからです。
神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。
しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。
私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。
あなたは、何とかして、早く私のところに来てください。デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい、また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行ったからです。ルカだけは私とともにおります。マルコを伴って、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。
テモテ第二の手紙4章1節~11節