「文字は殺す」と言うのはなんか物騒ですね。確かに昨今はツイターやフェイスブック、投稿への書き込みとか、言葉を使って人を傷つけたり、傷つけられたりすることが増えたかもしれません。インターネットが隠れ蓑を与えているからでしょうか。
ただ、今回の「想うこと」のトピックはそこではありません。また別の機会に触れられればと思います。タイトルの言葉は次の聖書からの引用です。
「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」
コリント第二の手紙3:6
旧約聖書ってとっつきにくいし、古いし、新約聖書があるからもう必要ないんじゃない、と思ったりしませんか? だいたい分かりにくいばかりか、残虐なことも多いし、旧約聖書がイエスの福音を伝える上で邪魔になるし、妨げになっている。だからいっそのこと旧約聖書は破棄して、新約聖書だけでいいんじゃないかな、と言う声が、クリスチャンの間でも聞こえています。
先日、私たちの教会に旧約聖書学の権威である、Bruce Waltke 先生を招き、「旧約聖書は聖書から取り除かれるべきだろうか」、と題して語って頂きました。先生の論旨はクリアで、結論はもちろん、旧約聖書は重要で今日の信仰生活において欠かせない、ことを確認し、いくつかの誤った旧約聖書の捉え方、理解の仕方、誤解、学びが欠けている点などを指摘してくださいました。恵まれたコンファレンスでした。
たくさんの重要なポイントが挙げられていましたが、私が特に大事だな、と思ったのは、旧約聖書が正しく理解されていないこと、誤った解釈をされていること、誤った用いられ方をされていること、そして何よりきちんと学ばれていないことでしょう。旧約聖書そのものが問題ではなく、それを扱っている私たちに問題があるのです。先生曰く、それは、野球のバットを使って人を殴るのを見て、バットを禁止するようなものです。問題はバットではなく、殴る人の方にあります。
旧約聖書でアブラハムに与えられた契約、「「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12章1〜3節)この契約は旧約聖書の根底に流れ、やがてイエスキリスト、「真のイスラエル」によって成就されて、今日教会を通してイエスがこの契約を履行し続けているのです。到底旧約聖書を切り捨てるなんてあり得ないですね。
質疑応答の時間に、ある方が、パウロが「それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。(ローマ書7章10節)」と言う聖書の箇所をどう理解するべきか、と問いかけました。「戒め」つまり旧約のおきてが死をもたらすと言うのは、やはり旧約聖書は過ぎ去ったもので、悪いものなのでは、と言う感じの質問でしょう。私も、冒頭の「文字は殺す」と言う「おきて」は人を苦しみに追い込み、失望に至らしめる、と考えていますから、ふんふん、どう答えるのかな、と興味津々でした。
Waltke先生は、ダビデとパウロを対比して答えました。私なりに先生の答えた内容を理解し、噛み砕いてみました。
ダビデは「神の心にかなった」者として知られています。ダビデは、詩篇1篇で神のおきてについてこう語りました。
「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」
詩篇1篇1〜3節
時が来ると実がなり、葉は枯れない、と言うのは「いのち」を表しています。ダビデは、神の教え、おきてはいのちに繋がると歌ったのでした。これは、ダビデが神がアブラハムに与えた契約の流れに乗っており、神様と「個人的に」「親密に」交わっていることの表れです。
パウロがローマ書7章で語る「戒めが死に導く」と言っているのは、神様のおきて、教えが彼を死に導いている、と読むのは表層的な理解の仕方です。実は文脈、そしてパウロを知れば分かるのは、パリサイ人として律法をことごとくチェックリストとして生きること、自分の力で正しく生きようとする、その行為はいのちではなく失望と落胆、つまり「死」に至ってしまう、と語っているのです。ローマ書7章全体はその苦悩の集約と言えます。
パウロは「義人は信仰によってのみ生きる」と結論したのは、神の与える「いのち」は聖霊によってイエスと交わる時。。。つまり信仰によって生きる時、その時こそ可能であり、自力でチェックリストをこなすことからは「死」だけが待っている、と言っているのですね。
ですから、問題なのは神様のおきてではなく、自分がそれをどうするか、と言うことにかかっているのです。
神様の天地創造に始まる大きなストーリーは今日も続いています。現代はイエスの十字架、復活、昇天に基づいて、聖霊が信じる者一人一人を導き、この大きなストーリーを引き続き織り成しています。どうかあなたもダビデのように神様の言葉を喜びとし、心に留め、イエスが語る豊かないのちを体験し、実践していけますように。神様がアブラハムに約束した祝福が、私たちにを通して、引き続き周りの方々へもたらされていきますように。