礼拝説教で想わされたことをシェアします。聖霊の実からのシリーズで、今回は「忍耐」についてでした。小さいころから周りからは「我慢強い」「落ち着いている」などと言われて育って来ましたが、聖霊の実である「忍耐」が自然に備わっているかというとそれは全く別のことなんですね。9個の実が全て聖霊によってはぐくまれることが大事だとシリーズの最初で釘をさされています。
私は教会の礼拝賛美チームのローテーションに入っているので何週間かに一回お呼びがかかるのですが、そうするとその週末の礼拝3度全てに出ることになります。牧師からの同じ説教を3回も聞くのはつらいのでは、と思いきや、とてもためになるんです。聖霊が鈍感な私に、3回かけてみことばを繰り返して、ようやく頭から心に通じてくれるようにしてくれますから。
「忍耐」は自分は結構あるんじゃないかな、と思っていましたが、説教を通じて、なんと間違った考えだったか、と気づかされました。
礼拝説教ではノートをとりますが、しばしばある特定の考えやイメージ、ことばが心にひっかかります。これは聖霊が袖をつまんでくれていると思うので良く注意を払いますが、今回のひっかかりは “Establish your hearts” というヤコブ書に出てくるフレーズでした。この文脈は次の通りです。
「 こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。(ヤコブ書5章7~8節)」
ここで、「心を強くしなさい」と日本語に訳されているフレーズです。アンプリファイド版では”keep your hearts energized and firmly committed to God” とあります。心にエネルギーを蓄え、神に固く信頼させよ、というような意味でしょうか。元気を出して神様に忠実にありつづける、ということですね。ワクワクを持て、ということでしょうか。
イエス様がこう語ったのを思い起こさせられます。
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(ヨハネによる福音書16章33節)」
どうしてひっかかりを覚えたのか考えてみました。牧師は3つのポイントを挙げていましたが、そのうちの1つが大きく関わっているな、と思ったんです。
「心を強くしなさい」の言葉の前後に2つの重要なポイントが潜んでいます。一つは農夫のたとえ、もう一つは主の再臨です。さらにイエス様の言葉で分かるように権威はイエス様にある(世に打ち勝った)ことが蝶番(ちょうつがい)の役を果たしているんです。
私はこれまでずっと実務派で、「管理」「運営」「処理」といった活動が得意です。このような特性に対しての大敵は「突発的」「ランダムな」出来事です。自分の計画や準備が台無しになり、コントロールがきかなくなるからです。幸いテクノロジーの進化で速やかな対応や、工夫をすることが出来るので、たいていのトラブル処理は「管理」が可能です。でも、おかげで心の中は動揺が、恐怖感がつねに渦巻きます。ドキドキなんです。いつそのコントロールがきかないような出来事が起きるんだろう、と悩むのです。忍耐どころではありません。私にあったはずの「我慢強さ」というのは仮面です。
「心を強くしなさい」というのが聖霊の声でした。
農夫たちは自分達のコントロール出来ない「雨」に頼ったのです。その信頼が忍耐につながる、とヤコブ書は伝えてくれているんですね。ヤコブはさらに、「(なぜなら)主の来られるのが近いからです。」と、忍耐できる最大の理由を諭してくれます。
牧師はこの再臨についてこう説明しました。「イエス様はある未来の時点で私たちと物理的に一緒にいてくれるようになる、それは確かである。しかし、この再臨のプロセスはすでに昇天から始まっている。」 イエス様はすでに再臨中で再臨の成就に至るまでそれは続く、というのです。だから忍耐が可能なんだ、というのです。
わたしに対する神様のとどめの一撃は、その礼拝の朝のデボーションで読んだケラー先生のThe Songs of Jesus からの一節でした。こう書いてあります。
「Because he is all-powerful, nothing is out of his control. Because he is perfectly righteous, everything will eventually work together for good in the end. (神様は全能であるから、何事もその手に余ることはない。完全なる義の神様であるから、全ては必ず最後に善きように働かせてくださるのだ。)
彼はこう祈りで結んでいます。
「主よ。私はしばしば主の力に対して憤り、あなたの義を疑います。しかし、自分があなたより優れており物事を分かっている、と思いあがる時、私は深く混迷と不安に陥るのです。「主を讃えることを覚えた者たちは幸いなり。(詩篇89篇15節)」とは本当に真実です。あなたが善き方であり、全てをその御手で動かされている、ということを受け入れるならば、私の心は益々落ち着くのです。アーメン」
牧師は忍耐への一歩は「submission – 服従」から始まると言いました。イエス様に服従することはすなわち、彼の再臨を待ち望む、望みと喜びが常に共にある、ということです。ワクワクなんです。 そこに忍耐が生まれます。単なる我慢強さは心の深みの恐怖・動揺・不安を解決しません。そんなことを想わされた週末でした。
現在教会は新ビルの建設、牧師・スタッフの異動がいくつもあり、私の「通常業務」はどちらかというと「異常業務」みたいに感じられることが多いです。ドキドキなんです。 そんな時の私のデフォルトは自分の実務能力に頼り、自分に出来ることをガシガシやる。状況を分析して、予測をたて、戦略的に物事にあたる、といった具合にです。作戦で乗り切ろうとするんです。でも、今週の神様からのリマインダーは、「農夫(収穫)と雨(恵み)」、「不確実な現在・未来と臨在・再臨」、「自力と神の力」「自己中心と服従」でした。
ドキドキがワクワクになりますように。