「私が大人になるまでこの地球はあるのかな?」という事を自分は子供の頃、誰にも聞けずに心配していたのを覚えています。政治にも自然界にもほとんど知識はありませんでしたが、この世界が根本的に不安定である事はニュースを観たり人が話す内容から察知する事は子供なりにできていたのを覚えています。再び世界大戦が起きるのではないか、自然破壊が進んで地球が滅びるのではないかと言った不安が、15歳でイエス様に出会うまで心の奥で重荷になっていた頃が今では痛々しく思えます。(苦笑)
人間の精神状態に不安をもたらすものは世界政治や自然破壊に限った事ではないですよね。 この世界が不安定で、究極的には完全に固定されているものは存在するだろうかと疑問になります。 思い当たる限りではこんな感じです。

文化 / 一般常識の水準:

「まったく、最近の若い者は!」と言うノリの話しは自分の子供の頃から耳にしましたが、気が付くと今では自分も言ってる? 歳を重ねていくと(^^;)、自身の生い立ちの文化の中で教えられてきた「普通」や「道徳」、「常識」が変わっていってるのに気が付きます。 時の流れによってだけではなく、国々によっても違ってきますよね。例えば、一つの国では普通な事も別の国では大犯罪になる事も、礼儀とされる事が他では無礼だったりする事がないでしょうか。人それぞれの性格が違うのと似ていて。

 

将来への不安: 

一般に人々が心配する事は書き出せば切りがないだろうけど、よくあるものでは、 持ってる株の価値が下がらないか、リストラされないか、入学試験や資格試験に合格できるか、ローンを払い終われるか、子供を一人で育てられるか、障害をもった子供の将来、老後の資金は? 重大な課題は多くあります。

 

身の上:

自身や身内の人の健康や安全に関しての不安は例外なく、誰もが遅かれ早かれ経験するでしょう。

 

拒絶に対する恐れ: 

社交性スキル、流行の服や話題に遅れないようにと言うプレッシャー... たとえ、そんな波に上手に乗れていて楽しかったにしても、それを保てるかの不安が常に心に潜んでいるかも。いつの間にか自分じゃない人物を演じてしまう危険もありますよね。 対人関係に苦戦して、小中学校の頃から不安障害や対人恐怖を負ってしまう子供達が後を絶たないのは日本だけではありません。

 

失う恐れ: 

全て願いどおりに進んだなら、それもまた、それなりの恐れが出てくる事もあります。 その理想の状態がどこまで、いつまで保てるのか。手に入れた幸せを失う事への不安まであるのですから、勝ち目がないですよね。

 

マタイの7章24-27でイエス様は彼に従う者たちの人生を、どんな嵐にも流されない、岩の上に建てた家に例えられています。 イエス様を愛する信仰(ヨハネの福音書14:15)が、この箇所で家の土台となる岩として例えられ、その「土台」の上に人生を築いて行く事を家を建てる事に例えられています。 悩みや苦難が訪れても、動かない神様の真理が、この世の渦に巻き込まれない人生の意味や目的、平安を与えて下さるのを、これまで何度も見てきているし、自分も経験してきました。

イエス様はその次にその信仰を持たない人生を砂の上に建てられた、嵐にもろい家に例えられます。 移り変わっていくこの世が「砂地」であれば、予期せぬ「嵐」が来る時、そこに築かれた人生で信じて来たものや積み上げてきた努力は意味を残さずに流されてしまい、最終的に虚しさだけしか残らないと語っておられると、私は理解しています。


あらゆる権力や組織、国々、文化、個人の人間関係などの体制は社会を築いていくのに欠かせないものです。 でも基本的にはこの世界が、永遠に変わらない神様から離れてしまい、不安定な状態になっている事からすべての体制がそれぞれの自己中心の都合に合わせた基準や法則に従って成り立つので、「砂地」が確立されるのでしょう。

一方、移り変わる事のない神様の法則は「愛」なので、イエス様はこの世界とは逆に、自己を捨てられて私達の魂の為に十字架で犠牲となってっくださり、死に打ち勝って、私達が神様が意図しておられる生き方ができるように人生を導いてくださるではないですか! 自分は時々イエス様から目を離してしまって、「岩」から滑り落ちる事がありますが、主を呼び求めるといつも「岩」の上に戻してくださいます。 何が起きても神様の御心の中にいるかぎり、その人の人生には神様の前に永遠の意味があり、その人の心には、この世が与える事のできない平安が与えられる。これがまさに「岩の上の家」なんですね。

 

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」

ヨハネの福音書14:27