「耐え忍ぶことと、明確なイエスキリスト観 − 自分にとってイエスキリストが誰であって、何をして下さったお方だと理解しているか − は、直接の因果関係がある。Perseverance is directly connected to our clarity of who Jesus is and what He has done.」

George Guthrie, As quoted by Pastor David Wood

自己隔離とか、ソーシャル・ディスタンス、という言葉が当たり前になり、スーパーが品薄なのが普通で、レストランやファーストフードなど全てがテイクアウトになり、毎日毎日が不安と恐れとの対決のように感じられます。なんか、攻撃を受けていて、それをじっと耐えている、というイメージです。このまま耐え続けられるでしょうか?


ヘブル人への手紙


3月初旬、まだソーシャルディスタンスという言葉も、パンデミック、という単語もなかった時に、教会の全スタッフは二泊3日の修養会に出かけました。講師にリージェント・カレッジの新約聖書学のGeorge Guthrie 教授を招きました。冒頭の引用は、David牧師がGuthrie教授から聞いた言葉で、それを今週の礼拝説教に利用したものです。

この言葉は、Guthrie教授の権威であるヘブル書講解に関して話していた時に出て来たそうです。ヘブル書は、ローマ帝国からの迫害が激しい中、エルサレムにいたユダヤ系のクリスチャン達に向けて書かれた書簡として知られています。根底に流れるテーマは耐え忍ぶこと、そしてイエス・キリストの姿について旧約聖書の流れから説明している書簡です。


私の「耐え忍び」観


日本で育つ中で、私には、日本には「耐え忍ぶ」という美徳があったと思います。それはおそらく第二次世界大戦で敗戦国となり、そこから立ち上がって国を再興させるために必要なことだったでしょう。また、戦国時代から続く武士道のストイックな生き方、主君に仕えるサムライの心意気というか、それが「耐え忍ぶ」ことにつながっているように思えます。そしてそれは、両親から示され、教えられ、またメディアもドラマも「耐える」ヒロイン・ヒーローを取り上げ、そんな文化の中で育った私も、漠然と「耐え忍ぶ」のは良いことと思って来ました。

そのような耐え忍びは、精進する、という言葉や精一杯頑張る、という行動と密接につながっています。孤独な戦いです。でも、この耐え忍びは体も心も疲れ果てさせてしまいます。苦しくて、くじけてしまった時に、自分を責め、周囲をのろう心が起きます。疲弊し、立ち上げれなくなります。


聖書の語る「耐え忍び」観


聖書の語る耐え忍びは微妙に異なると思います。それは、精進とか精一杯頑張る、という内向きの自分の力を原動力にするのではなく、自分の「外側」の力、つまり、イエス・キリストの力によってである、という点です。そして、この耐え忍びの結末はすでにはっきりと、「勝利」と決まっており、希望が常に底流にあります。ですから、ガスリー先生が冒頭で語ったように、耐え忍ぶこととイエスキリストをどう捉えているか、ということが密接に繋がりを持っている、と言えるのです。

しかも、この耐え忍びは個人的なものではなく、周りを見渡すとあらゆる時代の、あらゆる国々の信者が無数に自分を取り巻いて応援するのです。自分に科されているのは、イエスキリストから目を離さないでいること、歩み続けることだけです。

自宅隔離を続け、人との接触がデジタル・バーチャル以外になくなり、恐れや不安に囲まれると、ともすれば、なんとか「耐え忍ぼう」と頑張りたくなります。しかし、思い起こしてください。どうか自分の力ではなく、神様に頼り、イエスから目を離さず、キリストにある兄弟・姉妹の励ましを感じながら歩んでください。

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

信仰の創始者であり、完成者でイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

あなたがたは、罪人たちのこうような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

ヘブル人への手紙 12:1-3