マタイ5章で、イエスは集まった群衆に向けて、8つの「幸いなるかな」というメッセージをします。次の言葉から始まります。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」
マタイ 5:3
心をへり下り、神の前に砕かれているものは幸いだ、というように解説を受け、そんな風に思っていました。私の性格上、「じゃあ、どうやったらへりくだれるかな。どんなステップをとるべきかな。」などと考えるのです。
でも、そうすると、この聖書の箇所が「幸いなるかな!」と思えるよりも、「もう一息だな!」「頑張れよ!」みたいに聞こえてくるのです。先日、神学者ダラス・ウイラードの解説を読み、新しい見方を教わりました。それをシェアします。
もちろん、心(霊)の貧しい、という状態は、同じ垂訓の箇所に出てくる柔和のように、神様を深く知るためには欠かせない心の状態かも知れません。そのように砕かれた、へりくだった心の態度は持つべきです。
しかし、ウイラード先生は、ここで目を自分に向けるだけではイエスのメッセージをフルに理解出来ないのでは、とチャレンジして来たのです。
へりくだりは重要ですし、聖書の他の箇所を読めばそれが一目瞭然です。しかし、努力して、なんとか自力でへりくだるなら自分は神の御国にふさわしい人物になれる!と勘違いすると、どんな人生に陥ってしまうでしょうか?途端にイエスのめぐみに浸る喜びを失ってしまいます。いつも本当に自分が謙遜であるかどうかチェックしないと気持ちが落ち着かないかも知れません。結局、どう頑張っても自分は努力不足で謙遜がまだまだ足りない、などと嘆きながら生きてしまうことになりかねません。
イエスは山上の垂訓で私たちに行動規範を与えているのでしょうか?ウイラード先生はそうではない、と語ります。
先生の解説を筆者抄訳で以下に紹介します。原文も掲載しておきます。
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「イエスはここで、『彼らは心が貧しいから幸いである』と言っているのではありません。イエスは『霊的にあらゆる点で嘆かわしい状態であることはなんて素晴らしいんだ。御国にふさわしい人々だ。』などと考えていたのではありません。
それは誤解で、天の御国が与えられている、というメッセージの中心ポイントが、霊的に貧しい状態なら御国にふさわしい、つまり喜ばしい状態である、というメッセージにすげかえられてしまうからです。これは即ち、福音を高らかに宣言するのではなく、またもやある種の律法主義に陥ることになるのです。
「幸いなるかな」とイエスが宣言しているのは、御国に値するメリットがある人々であったからというより、彼らがどんなに貧しかろうと、どんなに悲嘆にくれるべき状態であろうと、キリストのめぐみの故に、彼らの上に、彼らのうちに御国の支配が贖いを通してやって来たからなんです。イエスからの無償のめぐみが降りかかっているからこそ、彼らは「幸いなるかな」なのです。(筆者抄訳)
Jesus did not say, “Blessed are the poor in spirit because they are poor in spirit.” He did not think, What a fine thing it is to be destitute of every spiritual attainment or quality. It makes people worthy of the kingdom.
Dallas Willard, excerpt from “Faith That Matters: 365 Devotions from Classic Christian Leaders”
And we steal away the much more profound meaning of his teaching about the availability of the kingdom by replacing the state of spiritual impoverishment—in no way good in itself—with some supposedly praiseworthy state of mind or attitude that “qualifies” us for the kingdom. In so doing we merely substitute another banal legalism for the ecstatic pronouncement of the gospel.
Those poor in spirit are called “blessed” by Jesus, not because they are in a meritorious condition, but because, precisely in spite of and in the midst of their ever so deplorable condition, the rule of the heavens has moved redemptively upon and through them by the grace of Christ. Those spiritually impoverished ones present before Jesus in the crowd are blessed only because the gracious touch of the heavens has freely fallen upon them.