今年の抱負 2024

新年明けましておめでとうございます。これまで日本語BibleStudyを支援して下さり感謝します。また初めてこのウエブサイトをご覧になっている方も感謝です。

今年の目標は何にするべきか昨年の11月ごろから考え始めました。牧師のメッセージや、スモールグループでの学びの中から聖霊によって強く示されたものはなんだったかを振り返り、想いをめぐらして決めます。

また、ウエブサイトでのルカの学びやアブラハムの信仰の歩み、詩篇の学び、それら全てが聖霊によって結びつけられて、今年の目標は「神の臨在を生きる」ことをテーマにしています。

神はいつでもどこでも臨在されているお方ですから、今さらその存在を掘り下げる必要はありませんが、アブラハムの歩みからわかることは、神がいてもあたかも神が存在しないかのように生きてしまうことも神に信仰を持っていても起きてしまいます。クリスチャンにとって大きな落とし穴です。私にとっても同様大きな落とし穴です。

以前ある牧師が、「私たちは何かを自分で決めた後に神様にどうかそれを祝福して下さい、などと祈ったりするが、それは間違いである。神にまず委ねて、何をするべきかを祈り、それを遂行出来る勇気と力を与えて下さい、と祈るべきだ」と教会スタッフにお勧めしていたことを思い出しました。

事実上は無神論者

CAチャーチのDavid牧師はある時、「”functional athiest” 事実上は無神論者」という表現を教えてくれたことがあります。クリスチャン達も神を識っていると言いながら神無しで生きる時、それは事実上無神論者となんら変わらない、という意味です。激痛ですね。

詩篇では筆者達が赤裸々に自分の想いをつらね、神を追い求める姿が見られます。自分はそこまでがむしゃらでは無いと思い、ああそんなふうになりたい、と思うのです。

ヒルソング教会の賛美曲の一つに、’Breathe’があります。そのコーラスの歌詞は、「”And I, I am desperate for you. I’m lost without you.” あなたを必死になって追い求めます。あなた無しの人生は考えられません」です。この曲を何度となくリードしたり、一緒に賛美したりしましたが、いつもいつもその歌詞が現実であったとは言えません。

ブラザー・ローレンス

そんな中で、CAチャーチのサム牧師がメッセージの中でブラザー・ローレンスを引用しました。はっと気づきました。彼こそ神の臨在を生きた模範ではないかと。ローレンスは十七世紀にフランスで生まれました。ローレンス、という名前は、彼が29歳でキリストを受け入れ、修道院に入った際に受けた名前でした。修道僧ではなく、一般の信徒として入ったのです。そして厨房の働き手を務めました。

彼は僧侶ではありませんでしたが、知恵に満ちていました。彼と交わした信仰の会話、彼の書いた信仰の手紙などが後に「”The Practice of the Presence of God” (神の臨在を生きる)」としてまとめられ、多くの人々に影響を与えています。私もその一人です。

彼はこう手紙の一つに書いています。私の意訳をつけておきます。

「私は自分にどうしても必要だと思われる以外は、今後一切あらかじめ用意されたデボーションや、祈りの言葉を使わないと決めました。神様の聖なる臨在の中にじっと忍んで行くのが一番大事なのです。臨在の中でこそ単純に神様に注意を向け、敬愛の気持ちを持ち続けられるのです。それこそが、真の神の臨在であると言いたいのです。言い換えれば、私のたましいが神様と習慣的に、静かに、誰にも邪魔されない会話を持つ時なのです。“I have ceased all forms of devotion and set prayers except those to which my state requires. I make it my priority to persevere in His holy presence, wherein I maintain a simple attention and a fond regard for God, which I may call an actual presence of God. Or, to put it another way, it is a habitual, silent, and private conversation of the soul with God.”  」

Brother Lawrence, The Practice of the Presence of God, Second Letter

私のデフォルトは、物事を理論的に考え、系統立った方針に基づいて、順序立てた行動を取る、というものです。そして落とし穴は「自分でほとんどのことが出来るから、それ以外を神様よろしくね」という信仰?というか実質的無神論者として生きてしまうことです。

ブラザーローレンスの生き様は解毒剤の役割を果たしてくれるのです。

彼は、自分たちの目にみえるこの世の事も、目に見えない永遠につながる霊的なことにおいても、全て神に委ねなさい、そして神の意志を成就出来ることからの満足感を求めるべきです、と会話の一つで語っています。

そんなことが、そんな日々の生活が可能でしょうか?確かに可能なんです。イエスは聖書でこう弟子達に語りました。

「あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。(ルカ 24:49b)」

「「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」(使徒 1:4b)

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。(使徒 1:8a)」

つまり、聖霊が全ての鍵です。このイエスの言葉は成就しました。クリスチャンは信仰を持つ時聖霊が私たちのうちに宿るのです。

ブラザーローレンスは修道院での生活と任務の始まりに、父なる神に対して子供が安心してお父さんに語るように、こう祈っていたそうです。私もこの祈りを実践していきます。

「ああ神様。あなたは私と共におられます。ですから、あなたの戒めを従順にとらえ、これらの業務に専心します。あなたの臨在の中に歩めるよう恵みをお与え下さい。そのためには、あなたからの限りない助けをお与え下さい。私の働きをどうかお受け下さい。私のあなたへの愛情をどうか御手にお納め下さい。”O my God, since Thou art with me, and I must now, in obedience to Thy commands, apply my mind to these outward things, I beseech Thee to grant me the grace to continue in Thy Presence; and to this end do Thou prosper me with Thy assistance. Receive all my works, and possess all my affections.”」

 The Practice of the Presence of God, Brother Lawrence, Fourth Conversation