日本語BibleStudyの2023年の最初の週は、ユージーン・ピーターソンの12章からなる「詩篇:心の祈り」から私が学んだこと紹介します。各章毎に先生がピックアップした詩篇を読み、そこから何を読み取り、何を神様が語り、どうやってそれに応答するべきか一緒に考えて行動に移して行きたいと願っています。
ピーターソン先生は前書きの中でこのように述べられています。
「人は自分がどんな姿か見るために鏡を覗き込むように、自分が一体どんな人物か分かりたいと思って詩篇を探求するのです。鏡が自分の姿をはっきりと見せてくれるように、詩篇は聖書に基づいて自分がどんな人物か発見できるのです。“People look into mirrors to see how they look; they look into the Psalms to find out who they are. A mirror is an excellent way to learn about our appearance; the Psalms are the biblical way to discover ourselves.”」
「祈りは応答を語ることです。私たちから応答があってこそ神の御言葉はその働きを全うするのです。私たちの応答はどれもが祈りになっています。詩篇は応答の言葉ができるように私たちを鍛えてくれます。神様が私たちに向けて語られた創造的な、いのちを救う言葉に対して私たちが応答出来るようにです。大抵の場合、私たちの神様の御言葉に対する姿勢は、神様は自分に何を語られているのだろう、と自問することです。聖書を読むときにはまず間違いなくこのやり方が正しいのです。しかし、詩篇を読む場合の姿勢は、神様が語られている言葉に自分はどう応答するべきだろうか、と問いかけるべきなのです。“Prayer is answering speech. God’s Word has not done its complete work until it evokes an answer from us. All our answers are prayers. The Psalms train us in this answering speech, this language that responds to all God’s creating and saving words targeted to our lives. Our usual approach to God’s Word is to ask, What is God saying to me? That is almost always the correct question when reading Scripture. But in the Psalms the question is, How do I answer the God who speaks to me?” 」
Psalms, Eugene H. Peterson, InterVarsity Press, November 2011
あなたの神様との祈りの時が恵まれますように
詩篇を読むにあたって(イントロ)
前回の詩篇8篇には、創造の神は人類について「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。(詩篇8:5)」と語ります。今回の詩篇51篇ではその人類は罪に陥っていることがわかります。罪を祈るということは自分についてのあからさまな真実を見ることであり、神が罪人をどう扱われるかをわきまえることになるのです。罪を犯す、ということは悪いことをした、というよりも本質的に自分は悪であるということで、何かしら一時的に判断ミスをして失敗する、というようなことではないのです。罪を祈ることはもう罪を犯さないように決心することでもありません。祈りを通して罪人な自分を神様がどうされるのかを見出すことなのです。
詩篇51
指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき
1 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。2 どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。
3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。4 私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。5 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。6 ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。
7 ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。8 私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。9 御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。
10 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。11 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。12 あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。
13 私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。14 神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。15 主よ。私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。16 たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを望まれません。17 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
18 どうか、ご恩寵により、シオンにいつくしみを施し、エルサレムの城壁を築いてください。19 そのとき、あなたは、全焼のいけにえと全焼のささげ物との、義のいけにえを喜ばれるでしょう。そのとき、雄の子牛があなたの祭壇にささげられましょう。
何が書かれており、何を神様はあなたに語っていますか?
- ダビデの祈りはどんな状況の中で語られたでしょうか。(サムエル第二)
- ダビデは神に罪について何を求めているでしょうか。それが分かる動詞(きよめる等)を書き出してみましょう。
- 1-9節からダビデが自分の罪深さを強く意識していることがわかります。ここからあなたには神は何を教えているでしょうか。
- 10節がこの詩篇のターニングポイントであり、この詩篇のテーマです。神のみ前に罪を認め、それを悔い改める、ということはどう理解出来るでしょうか。
- 10節の「造り」という言葉は創世記1章の「初めに、神が天と地を創造した。」の「創造した」という言葉とリンクしています。どんな関わりがあるでしょうか。
- ユージーンピーターソンによると13-17節では「赦しが与えられている、ということは心の内面に起きることで、自分の外面に表される行動はその結果なのです。”Forgiveness is an internal action with external consequences.” 」と言います。どんな行動をダビデはここに書き留めているでしょうか。
- 17節の「砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。」というのはどういう意味だと理解していますか。このような状態になったことがこれまであったでしょうか?
- 18-19節では、ダビデは自分個人の罪の悔い改めと神の赦しはシオンの正しいいけにえにつながると書いています。個人の赦しの体験が社会正義に連なるということです。崩れたモラルと罪深さからの自己中心的ないけにえではなく、神がしっかりと築かれた城壁の中にあるコミュニティーから「義の」いけにえを捧げるようになります。