詩篇を読むにあたって(イントロ)

疑問を持つこと自体は罪ではありません。疑うことは信じることに不可欠の要素です。疑うことは正直になることです。目に見えることと実際の姿は異なることがあります。信じていることと実際に私たちが体験することがマッチしないことがあります。「一体何が起きてるんだろう? 神様からの情報ミスなのかな?教えてもらっていたのとは違う結果になっているのはどうしてなんだろう?」そういう疑いを、信仰を深く持つ者は避けて通ったり、否定したりしないのです。なぜなら、疑問を持つことによって、信仰が、ますます確固とした基盤に打ち付けられるようになるからです。

詩篇73

1 まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。

2 しかし、私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。3 それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。4 彼らの死には、苦痛がなく、彼らのからだは、あぶらぎっているからだ。5 人々が苦労するとき、彼らはそうではなく、ほかの人のようには打たれない。6 それゆえ、高慢が彼らの首飾りとなり、暴虐の着物が彼らをおおっている。7 彼らの目は脂肪でふくらみ、心の思いはあふれ出る。8 彼らはあざけり、悪意をもって語り、高い所からしいたげを告げる。9 彼らはその口を天にすえ、その舌は地を行き巡る。10 それゆえ、その民は、ここに帰り、豊かな水は、彼らによって飲み干された。11 こうして彼らは言う。「どうして神が知ろうか。いと高き方に知識があろうか。」12 見よ。悪者とは、このようなものだ。彼らはいつまでも安らかで、富を増している。

13 確かに私は、むなしく心をきよめ、手を洗って、きよくしたのだ。14 私は一日中打たれどおしで、朝ごとに責められた。15 もしも私が、「このままを述べよう」と言ったなら、確かに私は、あなたの子らの世代の者を裏切ったことだろう。16 私は、これを知ろうと思い巡らしたが、それは、私の目には、苦役であった。

17 私は、神の聖所に入り、ついに、彼らの最後を悟った。

18 まことに、あなたは彼らをすべりやすい所に置き、彼らを滅びに突き落とされます。19 まことに、彼らは、またたくまに滅ぼされ、突然の恐怖で滅ぼし尽くされましょう。20 目ざめの夢のように、主よ、あなたは、奮い立つとき、彼らの姿をさげすまれましょう。21 私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺されたとき、22 私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。

23 しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。24 あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。25 天では、あなたのほかに、だれを待つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。26 この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。27 それゆえ、見よ。あなたから遠く離れている者は滅びます。あなたはあなたに不誠実な者をみな滅ぼされます。28 しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。

何が書かれており、何を神様はあなたに語っていますか?

  • 2〜12節の疑問を自分なりに表現するとどうなりますか?
  • それは現代の私たちにも当てはまるものでしょうか?
  • 自己憐憫、自分をかわいそうに思うことは恐ろしいウイルスのようです。13〜14節で詩篇作者が語っているような経験をしたことがあるでしょうか?
  • 17節がこの詩篇のターニングポイントです。何が起きたのでしょうか?
  • 同じような経験がありますか?
  • あなたが礼拝を捧げる時、作者が気づいたこと、理解したことがどのように関わると思いますか?
  • 23節の、「しかし」が二つの対照的な文章を繋いでいます。それらは何と何でしょうか?
  • この詩篇は、悪がはびこり、反映していること(1-16節)そして、主の臨在の現実(17-28節)で成り立っています。悪者たちと神様ではどちらがより鮮明に思えますか?
  • 悪者の繁栄する姿と本当の彼らの現実には大きな隔たりがあります。どうしたらそのことを見極めることが出来るでしょうか?
  • 礼拝することがこの詩篇の祈りの中核とも言えます。礼拝することがどのように疑いや難解な質問を解き明かす助けになるでしょうか?

あなたは神様にどう答え、実践に移しますか?