今年はEugene Peterson の “God’s Message for Each Day” と言うデボーションで一日をスタートしています。先日は詩篇123篇からの言葉でした。The Message 訳が紹介されていました。(日本語訳は筆者の抄訳です)

“We’re watching and waiting, holding our breath, awaiting your word of mercy.”
「私たちは固唾を呑んであなたのあわれみの言葉を今か今かと待ち望んでいます。」
PSALM 123:2c, THE MESSAGE

リビングバイブルは同じ箇所をこう訳しています。

「いつ主があわれんでくださるかと見つめています。」

新改訳聖書はこう書いています。

「私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれまれるまで。」

123篇の2節の前半には「奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように」と書かれています。一挙手一投足、つまり主人のどんな動きも見逃さないように目を見張り続けるように、ということでしょう。

The Messageの訳では、文字通り「息を止めて」固唾を呑んで待つと言います。それほどまでに神経を集中し、目を凝らして見張っているものは何でしょうか?

私たちには神の全てを解き明かすことも、神の動きを理解したり、神を型にはめることなで出来ません。そういうことを見極めようと目を凝らし、固唾を呑んで待つのではないのです。私たちが信仰によって神に目を向けるときには何を望んでいるのでしょうか?今日の箇所からわかるのは、私たちは神のあわれみを乞い願い、いつあわれみが与えられるか待ち望んでいるのです。

詩篇123篇にはあわれみが与えられた、というナイスな結末はありません。「もういっぱいです」つまりもうこれ以上耐えられません、と叫ぶ声で詩篇が締めくくられています。それでは結局あわれみは与えられなかったのでしょうか?

あわれみは自分の望みが叶うことでも、善行への報酬でも、より良い行いができるような指導でも、「よくやった」という賛辞が与えられることでもない、とCAチャーチのJohn牧師は詩篇123篇からの説教で語りました。

あわれみは、神が身を低くし私たちに臨んでいることです。そうです。イエスこそがあわれみなのです。究極のあわれみが与えられているのです。