汚れを知らない、悪を知らない、無邪気、ナイーブ、うぶ…   無意識にも私は「純粋」であると言う事はそう言う類の心のあり方だと考えていました。しかしそれは「純粋」=子供らしさと言う解釈から来た誤解だったようです。実のところは逆で、子供らしさの中に「純粋さ」と言う要素が含まれているのであって、冒頭の要素は子供たちが持つまた別のものであるのだと理解するようになりました。これは、ヨハネの福音書のシリーズ書くにあたって、再びこの福音書を学んだ中で見えてきた「二極化」した人たちの状態、つまり「純粋な人間」と「不純な人間」を読み取った中からの結論です。今回は、自分が気づいた「純粋さ」と「不純さ」のあり方について思いを巡らせます。

あの少年

誰もが見栄を貼って王様の服は素晴らしいと称賛する中、誇らしげに「賢い人だけが見える」とされる「高価な服」を着たつもりになってパレードを王様が歩きます。そのありさまを指差して、一人の少年が叫びます。「なんだ! 王様は裸じゃないか!」そして人々も王様も我に帰ると言う話がありますね(*)。 この少年は有るがままの事柄を認識しました。純粋さと不純さを考える中で、私はこの童話を思い出したのです。 

*アンデルセン童話、「裸の王様」

不純さ

主イエスの周囲にいた宗教指導者たちを参考に「不純さ」から考えます。彼らには多くの特権が与えられていました。幼い頃から受けていた歴史や律法、そして来るべきキリストに関する預言などに関する学歴は、博士号なみだったに違いありません。イエスがその預言にぴったり当てはまっていた事は彼らが少しでも調べるなら判断できた筈でした。しかし、大半の指導者たちはイエスをキリストと認める事を拒みました。彼らが追い求めていた事柄は、自分たちの権力と地位や富を守ると言う事であった為、実際にキリストが現れるなどは都合の悪いことでもあったようです。始めからイエスを否定することを決断していた彼らに残された選択肢は、あるがままの事柄を直視しないことでした。それ故に彼らは、イエスが神にしかできないような奇跡をキリストであるしるしとして行ったり、イエスの口から彼らが反論できない真実が出て来ようなら、悔い改めるどころか、怒りに溢れてイエスを殺そうと企むに至ってしまいます。

(とびら4:「人の子 その2」を参照) 

いつの世も、原罪を持った人間の在り方として、人はこのような状態にはまってしまいがちなようです。ディフォルトとして、自分に都合の良い教えや考え方を周りに集め(*)、自分の益になる事や人に好かれるために神に背中を向ける事をしてしまいます(**)。目の前の真実をあらゆる理屈や屁理屈で曲げる、そして酷い時は相手から図星な発言をされると発狂するまでして心を頑なにすると言うこともあります。こんな状態をエレミヤ書の中で神様は「欺きにしがみついている」のだと言い表しておられます(***)。心の「不純さ」と言うものはこう言う事を定義するのだろうと理解するようになり、私も自分の心や姿勢を「欺き」と言うものから守れているのかと我を振り返させられます。

* Ⅱテモテ 4:3-4
** ローマ 12:2
*** エレミヤ 8:5

純粋さ

「キリストとはこの方以外に誰であり得ようか?」(ヨハネ 7:31を要約)と言って、イエスをキリストとして信じた人たちがいます。彼らはイエスの奇跡と真理を目の当たりにしてこう判断したのでした。王様の裸を叫んだ少年のごとく、この人たちは目の前にあるがままの事柄を認識したのでした。

人はどんな事柄よりも先に、人生の根本的な課題をそのまま追求するのであれば、神の御前にたどり着くのだと私は確信しています。「神とは本当に存在するのか。この世界はどうやってできたのか。自分はどこから来たのか。死ぬと何処に行くのか。どうしたら神に受け入れてもらえるか。」こう言った問いは「分からない事」としてかたつけてしまう人は多くいます。一方で、これらの課題に体当たりし続けるのであれば、神との出会いに導かれると神ご自身が約束しておられます。私も含めて、多くのクリスチャンたちの神に出会うまでの過程からも、これを大いに証言できるのです。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

マタイ 6:33

「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」(マタイ 5:8)このイエスのことばは正に、あるがままを見る「純粋さ」を指して言われたのだと近頃気づくようになりました。目の前にある真実が飛び石だと考えれば、それに飛び乗るかどうかは本人次第です。直視するのが面倒だったり、自分に都合が悪ければ乗らない人も多くいます。しかし、それに飛び乗る者たちには次の飛び石をまた見せてくださる事を神様はなさるようです。神と出会うまでの過程も、クリスチャンとなって神と歩む過程でも、心のきよさを保って真実を追求し続けることが「神を見る」ことの条件であるようです。それは人の魂と聖霊との交わりが心で神を見る事になり、この世を去った後は祝福してくださる主イエスが王座に座っておられるのを、その人は見ると言うことになるからです。