読む前の要点:

  • あなたは、どんな人が天国に入れると思いますか? またはどんな努力をするべきだと考えますか?
  • イエスキリストが神であったなら、なぜ十字架から逃れようとしなかったと思いますか?

神の取った手段

「誰だ、お前は!」と一家の主が叫んだのは、家族四人で出かけ先から戻った時だった。二人の幼い娘と息子は恐れて母親の後ろに隠れた。「何をしてるんですか!」とその主婦からも怒鳴られても動じず布巾で茶碗を拭きながら、一人の見知らぬ男性が台所に立っていた。家は綺麗に掃除がされてあった。食卓にはなんとお鍋料理の準備がされてあり、「まあまあ。皆さん疲れたでしょう。夕食の準備はできてますよ。みんな手を洗って来てくださ-い。」と言う別世界からの応答がその男から返ってきた。「今すぐ出て行け!警察を呼ぶぞ!」と主が発狂するのは当然の事。しかし、手強い相手は負けずに、嘆くような声で「ひどいなー。そんな怒るなんてー。見てくださいよー、この家。一日中掃除して、こんなに腕を振るって食事まで用意してあげたのに、何の感謝もなしですかー!」と逆切れして隣の客室に入って行った。「何よ、その荷物は!?」と主婦が客室のベッドに置いてあった幾つかの大きなカバンを見て叫ぶと、「一番小さな部屋で我慢してるのに何で怒るんだよ! それより、そこの子供達を追い出せよ! 一日何にもしないで遊びに行ってて何の役にも立ってないじゃないか-! あ-あ-、旦那さん! 110番するなんてあんまりだー!!!」

勿論作り話です。こんな無茶苦茶な話はニュースでも読む事もないでしょう。良い事をしているのだからその家に居させてもらうのは当然だと主張する男性の言い分は馬鹿げています。赤の他人なのだから成り立つ訳がありません。警察を呼ばれて住居不法侵入の罪に問われてしまいます。

ところが、この男性のメンタリティー(考え方)は意外と頻繁に見られるものです。良い人なら、良い事をして生きていれば天国に生けると言う考え方は、多くの宗教や文化の間でも教えられているのではないでしょうか?しかし、聖書は違います。神が喜ぶ行いや生き方は神を愛する人間からの副産物だと教えます。(ヨハネの福音書14:15)人は神との和解が無く生きる限り神にとっては「赤の他人」の立場のままなのです。(マタイの福音書7:23) その場合、その人の抱えている原罪や犯してきた罪も赦されていないままになっています。神は一人一人が神の家族の一員として生まれ変わる事を望んでおられます。(エゼキエル書33:11)

前回の「とびら⑥ 神からの独立 」で、人は神から独立した立場を選んだ結果、神から断絶されてしてしまった事を書きました。人間は神の心を探るよりも、それぞれの都合に合う良し悪しを決め、自身の道を開いて好きな様に生きて行く事を選び、多かれ少なかれあらゆる罪を犯しながら人生を歩んでしまいます。罪と言うものは自己を優先する心の状態 (原罪) から、想いや言葉や行動で実を実らせます。自己中心の故に、自身の都合に合わせて嘘をつく、盗む、人を見下す、傷つける、妬む、恨む、回りを省みないなど、人には個人差はあってもこう言った罪を多かれ少なかれ犯してしまいます。神の前に、罪のない潔白な人物は一人も居ないと聖書は語ります。(詩篇53:1-3、ローマ3:10)

神の前に出る日

一人一人遅かれ早かれ神の前に出る日が来てしまいます。 (ローマ14:10-12、ヘブル 10:30-31) 丁度、裁判官が感情に左右されず、えこひいきなく公正な裁きを下さなければ、裁判官としての資格がない様に、神は果てしなく聖なる方なので、罪や悪と言う物はどんなに少量でも許す事はなさらず、神としての裁きを下されるお方です。神との和解が無いままだと、人は人生を終えた後、聖なる神から離され、永遠に地獄という所に閉じ込められてしまうことを聖書は頻りに警告しています。* とても悲しく恐ろしいことです。人は皆、罪を全て赦される必要があります。そして、聖なる神と罪ある人間が和解できる唯一の手段は神の手の中にのみあったのです。

*ダニエル12:2、イザヤ66:2、マタイ10:28、黙示録21:8 等

 

「キリスト」と言う言葉は「救い主」と言う意味ですが、神が御子であられるイエスをこの世に送られた主な目的は、人間の魂を神の義なる裁きから救うためでした。(マタイの福音書1:21、ヨハネの福音書1:29)人間の心の隅にある罪から取り返しのつかない犯罪まで神から隠されている罪は一つとしてありません。その全てを知り尽くされていながらも、神は私たち一人ひとりを愛されています。この世に存在している人物で神の愛から外されている人は一人も居ません。罪の中に埋もれているその人の魂を神は果てしなく愛されています。(ローマ人への手紙5:8、ヨハネの福音書3:16)

神の手段

ローマ帝国の処刑方であった十字架刑にイエスが定められた経過は確かにこの世の指導者たちの動きからでした。それでも本当は、神であられるイエスが十字架刑から逃れる事はいとも簡単な事だったのです。(マタイの福音書26:53)人類の魂の救いのため、神は十字架刑を使われました。罪一つない、潔白な人生を送られた御子イエスが人類の身代わりとなって神の裁きを受けて十字架で死なれたのです。

例えあなたがこの世でただ一人の人間であったとしても、イエスは天から降りてきて、あなたの為に死んでくださっていました。」- ニッキーガンベル牧師 -

死に対する勝利

もう一つ重大な事は、よみがえりです。イエスがあの日に死なれてそれっきりだったなら全て空しく悲しいままです。でもそうではありません。十字架刑から三日目に、イエスは死に打ち勝ってよみがえられました。*   イエスの死と復活は人が神に赦されて神の家族として生まれ変わる為の唯一の手段だったのです。人には「魂の死」と言うものに対して「天国での永遠のいのち」と言う勝利の道が開かれたのです。**  御子なる神の命と言う果てしない代価をもって、神が人類を買い戻す道が用意されました。これが神からの偉大な愛の歩み寄りです。

*マタイ28章、マルコ16章、ルカ24章、ヨハネ20章、使徒1:3
**第一コリント15:54〜55

 

死の針いずこ
退けよみよ
君*は戦に打ち勝ちませり
ハレルヤ

聖歌171番 「よびとようたえ」より
*「君」=君主

 

どうしたら救われるのか

この救いはどうやって手に入れるのでしょうか?人は不信仰でも反逆的でも無関心でも十字架の救いは成立しません。神の愛を知ったら神に応答する事が重要です。罪を悔いる事と十字架のわざを感謝し、イエスに自分の神として人生を導いて下さる様に祈り求める事が重要です。こうして初めてその人の以前の罪も後の罪も全てが赦されて神の家族の一員(クリスチャン-キリスト者)になるのです。一人の人がキリストに救われ、神の子供として生まれ変わる時、天の御国では天使達の大歓声が沸き起るのだとイエスキリストは語られています。(ルカの福音書15:7)

    「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びる事なく永遠の命をもつためである。」

ヨハネの福音書3:16

とびら⑧「応答の扉」にて、神の愛に応答する事についてもう少し詳しく触れています。