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毎回「リフレーム」ブログでは、オリジナルのリフレームコースから証しや短いメッセージを日本語キャプション付きでご紹介します。
イエスが全てのものを和解に導き、全てのものを支えているとすれば、(コロサイ書1章)私たちの現在の生活にはこの信仰はどのように反映されるべきでしょうか?反映されているでしょうか? イエスのストーリーをより深く理解することで、イエスは私たちのストーリーを新しく造りかえてくれるのです。私たちの信仰は日常生活に生きてくるようになるのです。
ブレた視野:
現代社会は私たちの視野に影響を与えます。自分がどうこの世の中や、周りの人々、そして自分自身の人生をどう見極めるていくべきか、ということに働きかけてくるのです。でも悪影響なのです。あたかも私たちの目に白内障のような病気をおこさせるようです。私たちの視覚は衰え、目が見えにくくなり、ぼやけ、ブレてしまいます。同様に、現代社会の悪影響で、私たちの価値観はぼやけ、ゆがみ、そしてついには崩れてしまうのです。
テクノロジーのおかげで、人と人は、今までにないほどつながりを持っています。でもこれまでほど孤独に悩む人は少なくありません。何でもかんでも新しいテクノロジーを手に入れたい、という誘惑は強まる一方です。どこにでも素早く旅行できるようになりましたが、同時に「アットホーム」自分の居場所の感覚を失ってきています。自分は本来のどこに属すのか、尋ね求め続けるのです。でも結局ひとつところにとどまれず、いつも居場所は定まらないのです。 仕事や家庭でも、テクノロジーのおかげでいろいろ手間が省け、時間が節約されているはずですが、人は大抵自分の生活は「忙しい」と言っています。
経済界を見ると、生産性が益々上がっているのに、人々は将来に不安を覚え、雇用の安定について安心感を持てず、退職後の余生の生活資金に不安を感じています。医療費はまかなえるのか悩み、環境問題に心を騒がせ、自分達の子供の世代は暮らしやすい世の中だろうか、と悩みは尽きません。
現代社会がますます複雑化しているのも問題です。自分で答えを出さなければならないことが増えてしまったのです。しかし、断片化している世の中で、今社会で何が起きているのかを見極めるのは難しくなる一方です。解決せねばならない問題は山積みになっています。
様々な呼び声がこの世の中では私たちの心をとらえようと叫んでいます。あんまりにも多種多様で、断片的なので「うるさいな」、と私たちはそんな多くの声には何も信頼できない、と思うのです。結果、不信感と冷ややかな目をそのような声に向ける、という態度を持つようになります。
そんな中、益々この世の「ストーリー」つまり世界観・価値観が、私たちに、「わたしの声に耳を傾けなさい。」と呼びかけてきます。そんな声の種類は数々あります。まるでバベルの塔の時代に人々があらゆる言語で喋っているので誰も他の人が何を語っているのか分からなくなってしまった時のように、現代は混乱が混乱を招いているのです。
結果:
自分の周りも自分の生活も細分化・分裂化しているので、注意力散漫を招き、何が真実か、リアルなのかわかりにくくなります。 聖書のストーリーも、他の多くのストーリーと横並びになってしまいます。聖書の語ることが、本当に現実の生活に何か役に立つのか、関係があるのか、などと疑いを持ちます。今の自分の人生の苦労や、喜び、悲しみなどの体験が聖書とどう関連性するのか疑わしい、と思い始めるのです。
こんなふうに自問自答してみませんか?
- クリスチャンとしての信仰は現実の社会にどのように関わりをもつのでしょうか。
- もう頼みは、あとは天国に行くのを待ち望むだけなのでしょうか?すなわち、この世とはなんとか通り抜ければならないもので、切り抜ければそれでよしとしておくべきでしょうか。 私たちは、そんな目的のために、救われているのでしょうか。
ディスカッション:考えてみてください
具体的に、あなたの生活はどのように複雑化していますか?そのことをどのように捉えていますか?心の持ち方に変わりが出てきたでしょうか?
ストーリーが切り札:
世の中、そして自分の人生を理解するには、自分が存在しているストーリーを理解することにかかっています。困ってしまうことは、普段の生活のなかで、四六時中、何百という誤ったストーリーが私たちに誤った言葉を投げかけてきていることです。自分の存在意義は何か。どうやってコミュニティーの中で生活していくべきなのか。自分のまわりで何が起きているの。どうしたら幸福に暮らせるのか。そういう点に関して、誤った声を投げかけてきているのです。誤りのあるストーリーは私たちの真の姿にはあてはまらないのです。
しかし、たとえ誤っていようとも、この世のストーリーの声は大きく、私たちを圧倒し、混乱させるのです。
では、どんなストーリーに私たちは心を奪われるのでしょうか?
- 科学・実存主義のストーリー (科学・実存主義が全ての質問の答えである。科学こそが権威。)
- 環境主義のストーリー (環境こそすべて。人間よりも環境が優先)
- ポップカルチャーのストーリー (セレブ、空想の世界、体験・感覚を重視)
- 政治活動のストーリー (政治・政府が何でも問題を解決する。軍力・銃火力にものをいわせる)
- 消費主義のストーリー (物質主義。常に物を買い続けるように仕向けられる)
- 世俗・人間中心主義のストーリー (神はいらない。)
どんなストーリーに従うかによって私たちの人生の見方が変わります。自問自答すべきは、どんなストーリーに従って生きているのか、そしてそのストーリーによってどう変化させられているだろうか、という点なんです。
今後10週間では、イエスキリストの人生、死、復活がどのように全ての人々 ー 科学者、美術家、主婦、会計士、ビジネスマン、清掃業者、コーチ、農家、牧師とか - の生き方の枠組みの見直しにつながるのか、ということです。
細分化・すみわけを拒否しよう:
現代社会においての一つの危険はオールオアナッシング(all-or-nothing)つまり白黒はっきりさせてみたい、という誘惑です。様々な声のひしめくこの世を生きていくときに、次のような二択しか無いように思って生きていくのは賢くありません。どちらかを選ぶのは簡単で気楽ですが、罠なんです。
1 迎合しろ (同調すること)さもなくば
2 回避せよ (無関係、縁を切る)
つまり、文化的な事物に直面した時、つい、迎合するか回避するか、オールオアナッシング、白黒つけたい、というのは誘惑なんです。私たちクリスチャンがこの世で生きるのは、この世に同調するのではありませんが、この世から自分を切り離して生きるわけにもいきません。この二つの間をあたかも嵐の波の中を進んでゆく船のようにナビゲート・航行するのです。どうしたらこの世にあって、キリストの証人として、天の御国を指し示す道標としての人生を送れるでしょうか。それがこのリフレームのポイントでもあります。
エマオの道をイエスとともに歩む:
復活後間もないころに、二人の弟子たちがイエスと交わした会話に注目してみましょう。
ルカによる福音書24:13-35
13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエオマという村に行く途中であった。 14 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。 15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。
17 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。 18 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけがしらなかったのですか。」 19 イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。 20 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。 21 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、 22 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、23 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。 24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。
25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。 26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」 27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに解き明かされた。
28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。 29 それで、彼らが、「いっしょにお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。
30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。 31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」 33 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。 35 彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。
- エマオに向かう弟子たちは顔を曇らせ、深く嘆いていました。
- エマオに向かう弟子たちは本当のストーリーを見失ってしまっていました。結果として、混乱し、ものを正しく見ることができなかった。
- エマオに向かう弟子たちはイエスに会うとは思ってもみなかった。そのため、イエスの姿をみても彼とは気づかなかった。
- イエスが聖書の本当のストーリーを理解できるように弟子たちの心を開いた。
物事を正しく見極めるためには、私たちは聖書のストーリーを理解し、その中に私たちの居場所を見つけることが急所です。
エマオへの道で聖書を解き明かすのは、弟子たちの目を明かるくすることに通じます。読み進めるとわかるのは、イエスが見えなかった弟子がイエスを認めることが出来るようになったことです。彼らはどんな反応をしたでしょうか?そうです、弟子達と同様に、私たちも心を燃やして反応するべきです! 「私たちの心は燃えていたではないか?」
最後に:
イエスキリストこそが、現代を生きるということはどういうことかを示してくれるのです。イエスキリストが人生全てのエリアに関わることが真に生きることにつながるのです。それをこの学びを通して再発見できたら幸いです。
私たちの文化はバラバラで、焦点を失っており、何が真の人生かわかりにくくなっています。イエスは私たちにいのちを与えるために来たのです。私たちの眼を開いてくれるのです。豊かな人生を送れるようにしてくれます。全て信じる者たちに救いをもたらす神の力をもたらしてくださいました。
これからの学びの時が私たち自身のエマオへの道となりますように。
ディスカッション:考えてみましょう
- あなたのイエスの弟子としてのイエスと共に歩む道程は今どのあたりにあるでしょうか?エマオへの道を辿っているとすれば、今どのあたりでしょうか?自分の人生のあらゆる面において、何よりもイエスの存在を必要としているでしょうか?
- イエスが自分の人生の全ての面において関わっている、ということは具体的にはどうすることを意味するのでしょうか。
- どんな疑問に今苦しんでいますか?最近のことを思い起こしてください。自分の訪れた場所、活動したこと、置かれた状況など、を振り返ると、あなたにはイエスの姿が見ることが出来たでしょうか。イエスの臨在をどのように感じましたか。イエスとは切り離されていたように思ったのはどのような時・場所でしたか。
コメントお待ちしています(みのる)
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