イエス・キリストと神の赦し・悔い改め

今年もまもなくイースターになります。教会で集まったり出来なさそうなので、どんなイースターの時期を過ごすのか全く予測が出来ません。でも、イースターのエッセンスにはなんら変わりがないことを覚えます。キリストの生涯、十字架の死、復活、そして昇天は、これまでも、現在も、将来も変わることがありません。神様はイエスを通して人々に赦しを与え、豊かな人生へと導き、永遠のいのちを与えてくださることになんら変わりはありません。自分でなんとか「気持ちを切り替えて生きていこう」と努力しても上手くいきません。私たちは、天地の創造主に造り変えられてこそ、新しい人生を毎日歩むことが出来るのです。自分の罪を悔い改め、イエス様の十字架を通して赦され、そして、復活の力によって私たちは新しく造られるのです。イエスが天に昇りその聖霊なる神を送ってくださり、今信じたものたち全ての内に宿っているからこそ、私たちの日々のあゆみは守られるのです。

この「悔い改める」という言葉は、極めてクリスチャン的な言葉です。どういう意味かととても単純に言うなら、神様から離れ続けて来た道を180度転換して、神様の方を向き、歩み始める決心をすることです。

悔い改めとそれとなく似通っている行動に、反省と後悔があります。悔い改め、反省、後悔、、、どう関連していて、どこが違うのでしょうか?

反省と後悔は行動を抑制したり、生活の仕方を向上させることが出来るかもしれませんが、結局根本の解決ではありません。神様から離れて歩いていることへの解決策は、悔い改めしかありません。

どれほど上手に説明できるかわかりませんが、今自分の抱えている感情や環境、人間関係において少しでも方向性を見出す助けになれば、と願います。


反省と後悔


東京03というコメディーのスキットをするグループがあります。リアルな演劇のような演出でシリアスに始まりますが、対話やシチュエーションが進むと、コミカルなやりとりが始まり、面白いです。先日Youtubeで見たスキットには、ハッとさせられる、興味深いセリフのやりとりがありました。

二人の会社の同僚が、落ち込んで、テーブルと椅子の上に突っ伏している同僚のことをふざけながら話す場面から始まります。この落ち込んでいる男はフィアンセがいながら、不倫していたのです。その相手の女性から嫌われて、挙句、彼女は二人が個人的に交わしていたラインのやりとりを会社中にぶちまけられてしまったのです。張本人のトヨモトを囲んで、同僚のカクタとイイズカがあれこれ反省を促したり、カクタが密かにトヨモトの不倫の技を盗もうと問いかけたり会話は真面目と不真面目を行ったり来たりします。

8分目からのやりとりはこんな感じです。

カクタ:「お前がしてるのは反省じゃない。後悔だよ。」
イイズカ:「急にまともなこと言うなよ。なんだお前、人格分裂してんのか。」
カクタ:「でもそうだろう。こいつ(トヨモト)はそれを勘違いしてるんだよ。」
イイズカ:「無理だって。お前さっきまで受付の子と不倫しようってしてたんだから。」
カクタ:「してねえよ。」
イイズカ:「してたろ。」
カクタ:「まだしてねぇよ。」
イイズカ:「まだ、って言っちゃってんじゃん。」
カクタ:「いいんだ、今俺のことは。こいつ(トヨモト)だろう。こいつ、これから大変なんだぞ。婚約者だってそんなに簡単には許してくれないだろうし。常務だって超キレてんだろ。お前その辺のところ分かってんのか。」
イイズカ:「まあ、確かにな。それに、今回の件、会社全体に知れ渡っちゃってるからね。今まで通り、って言うわけには行かないと思うよ、多分。」
トヨモト:「そうだよな。分かってる。周りが俺を見る目も変わってくるだろうし。仕事もやり辛くなると思う。でも、もう、全部受け入れるよ。」
イイズカ:「うん。まぁ、分かってりゃいいんだけどさ。」
トヨモト:「きっと、この試練も、必ず何か意味があるはずだから。頑張って乗り越えるよ。」
(三人ともしばし沈黙)
イイズカ:「試練?試練、って言った、今?試練、て何、なぁ?」
トヨモト:「えっ?」
イイズカ:「全部お前がまいた種なんじゃないの?何、『神に与えられた』、みたいな言い方すんの?試練て、おかしくない?」
トヨモト:「別にそう言うつもりじゃ。。。」
イイズカ:「いや、そう言うつもりなんだ、結局、お前は。いや、いいよ、俺は、別にいいけど。本当に反省している奴は、試練なんて言葉は使わないと思うけどね。」
トヨモト:「いや、本当に反省してるって!」
イイズカ:「いや、してねぇよ。」
トヨモト:「いや、してるんだって!」
イイズカ:「怪しいよお前。」
トヨモト:「いや、してるって!」
カクタ:「してねぇんだよ!お前、さっき、こう言ったんだよ。『なんであんな女に手だしちゃったのかなぁー』って。あれに、お前の全てが表れているよ。結局お前は、自分のこと被害者だって思ってんだよ。そういう男だから、浮気なんか出来んだよ。」

ここから、また、カクタのふざけた発言があり、オチへと進み、コントは笑いに包まれて終わります。

私の目に留まった(耳に留まった?)のは、
「お前がしてるのは反省じゃない。後悔だよ。」
「本当に反省している奴は、試練なんて言葉は使わないと思うけどね。」
「結局お前は、自分のこと被害者だって思ってんだよ。」

というセリフです。

一理あります。反省は、良心の呵責というか、済まないことをした、と感じ、理解することだと思います。「反省会」はどこがいけなかったか、何を間違えたか、あるいは何をし損ねたか、を省みる機会です。そして、次から同じ失敗をしないようにしようと努力するための第一歩です。

後悔は、失敗して残念だ、あの時ああしておけば、こうしておけば、と悔いることで、そこには失望があります。このコントのスキットのように、自分はあたかも置かれた状況の被害者であるかのように考え、悲しく感じることです。

Carey Dillinger はコリント第二の7章に関連して(詳しくは下段の悔い改めのセクションで説明を加えます)こう説明しています。

「この世的な悲しみは、物を失ったり、友人をなくしたり、がっかりしたり、無様な姿を人に晒してしまったり、というような感情が関わっています。「ああ、つかまってしまって残念だ」などと言う言葉で表されるような感情だと思います。」
Worldly sorrow could involve such things as loss of property, loss of friends, disappointment, or disgrace. It could be that kind of sorrow that is expressed as “I am just sorry I got caught!”

Carey Dillinger, https://www.bible.ca/ef/expository-2-corinthians-7-10.htm

悔い改め


コリント第二の7章に興味深い記述があります。

あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、私はそれを悔いていません。あの手紙がしばらくの間であったにしろあなたがたを悲しませたのを見て、悔いたけれども、今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。

コリント第二 7:8-10

「神のみこころに添った悲しみ」が悔い改めを生じさせる、と言うのです。Kyle Idleman は、後悔・反省・悔い改めの関連性についてこう説明しています。

「反省は後悔の念に繋がり、それが悔い改めにとつながるべきである
“Regret should lead to remorse, and remorse should lead to repentance.”- Kyle Idleman

行動を反省し、後悔の念、悲しみを持つことが、願わくば、悔い改めにつながるのだ、と言うのです。しかし、必ずしもそうならないのは、聖書に出てくる有名人の行動で明らかです。(イスカリオテのユダとペテロの違い)Robert Jamieson とDavid Brownは19世紀の神学者ですが、こう説明しています。

「悔い改め、は正しい考えに到達することがその意味に含まれます。「反省」は過去・現在のことに単に面白くない感情を抱くことです。それは、例えばユダの後悔(マタイ27:3)にも当てはまるでしょう。悔い改めのあるとことには反省と後悔がつきものですが、逆は真ならずです。」
“Repentance” implies a coming to a right mind; “regret” implies merely uneasiness of feeling at the past or present, and is applied even to the remorse of Judas (Mt 27:3); so that, though always accompanying repentance, it is not always accompanied by repentance.”

(Commentary Critical and Explanatory on the Whole Bible (1871) Robert Jamieson A. R. Fausset and David Brown, on 2 Corinthians 7)

「聖霊よ」


私がクリスチャンになったのはもう30年以上も前のことです。その頃、アメリカでホームステイをしていたのですが、そこのマザーが良く福音を語ってくれました。その中で、神様は必ず救いの祈りを聞かれる、と言う約束があり、もし、救われたい、と願うなら、悔い改めてイエスを受け入れるのよ、言う説明をしてくれたことを思い出します。「聖霊よ、聖霊があなたの願いと祈りを聞いて救いに導いてくれるわ」と言うのです。

私はでも、ふんふんと聞いているだけでした。「僕は大丈夫。特に悪いことしてないし、他の人と比べればしっかり勉強してるし、困ってることは無い」なんて、考えていました。しかし、聖霊は心の中に働き、罪をあばき、破れた現実の自分の姿をさらしたのです。(ヨハネ 16:8)

悔い改め、と言うのは、反省したり、後悔したら自動的に出来ることではないです。イースターだから、「よし、さあ悔い改めよう!」と思って出来ることでもありません。神様の前に静まり、聖書を開きその御言葉を受け入れ、心の中に響くことがある時、どうか、素直に「聖霊が語っているんだ」と聖霊の導きに従って下さい。以前にもブログで書きましたが、イエスの私たちへのまず第一の願いは、「幸いなるかな」なんです。私たちのいのちを新しく造り変え、豊かな人生を歩んで欲しい、と十字架にかかられたのですから。

「信仰の創始者であり、完成者でイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」

ヘブル人への手紙 12:2

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