読む前の要点:
- 聖書という書物はあなたにとってどの様なイメージがありますか?
- 聖書が神からの書物だとすれば、どの様な本であるべきだと思いますか?
「来たれ。論じ合おう。」
聖書を神の言葉であり、権威のある書物であるとして受け入れる事は代々多くの論争を招いている事は確かです。しかし、その様に確信する事の根拠はどこにあるのでしょうか?こう言った疑問が心に浮ぶ事は自然な、正しい事です。物事を正しく判断する努力をしたり、論理的な推論能力や自分なりのスタンスをもつ事は、その人の知性が成長している現れであって、自然な事なのです。
もし、疑問を持つことを禁じようとする様な教えであれば、それはマインドコントロール(洗脳)の第一歩なので、警戒する必要があります。しかし真の神はその正反対で、「頭を使え。」「調べろ。」「考えろ。」「尋ねろ。」と言わんばかりに私達の知性にチャレンジされる事が度々あります。そして、「来たれ。論じ合おう。」(イザヤ1:18)と言われる神は、本気で体当たりしてくる人を喜び、その心に答えてくださいます。
Ⅰテサロニケ5:21、使徒17:11、Ⅰコリント15:2、ピリピ4:8、エレミヤ33:3、箴言4:23、等
神の言葉であるならば、聖書は聖霊の力に満ちた「生きた書物」だと言う事になります*。どの様に「生きている」のか、なぜ真実として信頼できるのかをみてみましょう。
*ヘブル書4:12
1500年以上を越えて
聖書は旧約聖書が39巻、新約が27巻の計66巻の本でできています。原語としては、旧約聖書の大部分はヘブル語で書かれてあり、その他のある一部はアラム語でした。新約聖書の場合はほぼ全部がギリシャ語で書かれていました。紀元前1500年頃から西暦100年辺りの年月を越えて、聖書の66巻の書物は40人以上の著者たちによって書かれたものです。王達、預言者達、イエスの使徒たちなど、異なる時代を生きた多くの著者達の殆どはお互いに知り合う事が不可能であったにも関わらず、同じ神の事、同じ救い主の預言、同じ終末の預言などをつづっています。これは神の霊が著者達に働いていたからできた事なのです。(*)
*第二テモテ3:16
写本の話
聖書に限らず、古い時代に記録された歴史などは、写本(手書きで写された物)が出回っていました。手で写される以上、何処かの時点で内容が変えらていき、次第に原文と異なったものになってしまっている可能性が度々心配されます。原文が失われている場合、その写本の信頼性は、原文が書かれてからどのくらい時間が経ってから書かれいるかという事と、同じものが何冊存在しているかで判断されます。これらを追及する研究を「本文批評学」と呼びます。オックスフォード大学のアリスター マックグラス教授は、アルファコースのビデオ、(日本語字幕付きAFS02 Who is Jesus?6:40~10:00)(Alpha Film Series 06)の中でこれについて説明しています。
マックグラス教授によると、古代の歴史を記録した何人かの歴史家が書いた本の写本(手で写した物)は数える程しか見つかっておらず、書かれた期日も実際に書かれた時から900年以上も経ってからのものしか見つかっていません。それに比べて新約聖書の写本は千単位で見つかっていて、期日のギャップも30~300年と言う期間で発見されていると言う事です。結論として、彼は聖書は充分信頼できると語っています。
世界史、現代社会との統一性
聖書の話の中には、世界史でも共通して起きた出来事、または実存していた地名、国名、指導者たちや人物が登場する事が度々あります。なによりも、発足の原点が聖書の中で語られてあり、今も存在し続けているイスラエルと言う国や教会と言う組織の存在を前にして聖書が作り話だと論ずる事は、かえって無知な発言になってしまいます。
預言の成就
専門的な課題で長くなってしまうので、この場では例を挙げる事はしませんが、聖書と世界史や現代社会を詳しく学ぶと、聖書の預言の多くは現代の時点で既に成就されている事が知られています。
個人の証
さて、聖書が神の言葉であるなら、普通の本とは何が違ってくるでしょうか? 単に話や戒めが書いてあるだけならば「ためになる本」で終わってしまいます。しかし、もし聖霊の力に溢れた書物なのであれば、権威あるその言葉は人の心や人生を動かす力、変えていく力がある事になります。それを体験するには、神に従おうとする個人の姿勢と、その人の心に届く神の言葉が必要なのです。
「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、間接と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心の色々な考えやはかりごとを判別することができます。」
ヘブル書4:12
魂が聖書から成長する為の栄養をもらうため、日々少しづつ聖書に接していくと、何度読んだ場所でもいつも違った視点からの忠告、戒め、慰めや励ましをもらったり、進む道を示されたりします。 聖書を読む時、聖霊がその人の心に働いて、その読まれる言葉をまるで鏡の様にその人の状態や心を照らし移したり、その人が置かれている状況の真相を教えてくれたりもします。そこで神に従おうとするならば、自分の心も状況をも変えていく力、乗り越える力が与えられます。こんな風に、神は聖書を通して人の人生を変える事ができます。数え切れないクリスチャン達がこう言った体験を、それぞれが多かれ少なかれ味わって生きています。
体当たり
父祖時代、(とびら14)神は人々に直々に話をしたり、天使を送ったり、預言者を通して等の形で人間に語りかけられました。神殿時代(とびら15、とびら16)には主に、神殿礼拝、律法、預言者、そしてイスラエル民族を通して。そして教会時代(とびら17、とびら18)には教会と聖書を通して人類の一人一人に語りかけておられます。
仮に、高価な価値のある株券を人からプレゼントされる事があったとします。しかしもらった人がその株券がどういった物なのかを理解しないで、引き出しの中に眠らせてしまうのであれば、その人の生活を潤すことのできる大金は手に入らないままです。
それと似ていて、神が聖書を通して語ってくださる言葉は、真実であり、人を悔い改めに導き、人の心を造り変え、生きる意味を与え、人生を導き、状況を超えた喜びと平安を与えてくださる事ができるのですが、これには神の心を探し求める事、聖霊に助けられながら聖書に親しむ事(とびら⑫)を必要とします。そんな姿勢で体当たりしてくる人物に神は必ず喜んで答えて下さいます。
「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたの知らない、理解を超えた大いなる事を、あなたに告げよう。」
エレミヤ書33:3
「とびら-19-聖書の信頼性」への2件のフィードバック
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