7 民は、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って主がイスラエルに行われたすべての大きなわざを見た長老たちの生きている間、主に仕えた。
8 主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。
9 人々は彼を、エフライムの山地、ガアシュ山の北にある彼の相続の地境、ティムナテ・ヘレスに葬った。
10 その同世代の者もみな、その先祖のもとに集められたが、彼らのあとに、主を知らず、また、主がイスラエルのためにさらたわざも知らないほかの世代が起こった。
11 それで、イスラエル人は主の目の前に悪を行い、バアルに仕えた。


21:25 そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。

士師記2:7-11, 21:25


皆さんの新年はいかがですか?三が日も終わって学校や職場、また普段の生活のリズムに戻っていることでしょう。もし信仰が停滞気味だ、なんて思っているなら、ぜひ新年の抱負はそこから打開することを掲げてみてはいかがでしょうか。士師記からの礼拝説教から想うこと、そして信仰が活性化するヒントをシェアします。

私の通う教会では士師記から礼拝説教がありました。また、今週は(1月6日の週)教会は毎日朝晩に祈祷会を持ち、新年を祈りでスタートしていますが、月曜の最初の祈祷会で読まれたのは詩篇105篇でした。一つの単語が頭に浮かんできて、ずっと残りました。それは、「”Remember” 覚えておけ」という言葉です。

士師記は、イスラエルのリーダー、ヨシュアの死から始まります。ヨシュアのリーダシップのもと、イスラエルは約束されたカナンの地に入り、「主に仕えた(士師記2:7)」ですが、そのヨシュアが亡くなるとイスラエルはたった一世代で神からおさらばし、異教の神々 ー 偶像に仕えるようになってしまったのです。士師記はそんなイスラエルの信仰の失墜のパターンをまとめた暗い書だ、と教わりました。

士師記は繰り返し繰り返し、信仰が堕落していくのをまとめた書だ、と牧師は語ります。そこにはイスラエルの信仰が堕落していくパターンが見受けられるのです。牧師はそれを霊的生活のエントロピーと呼んでいました。放っておけばどんどん混乱が増し加わり、ついに崩壊する、というパターンです。

そのエントロピーの理由の一つが安寧です。惰性とも言えるでしょう。日常の生活が惰性で進み、神様が見えにくくなります。聖書を読むのが億劫になったりします。すると自分の周りの文化の強い流れに巻き込まれ、世の中の教えの声に協調してしまっていたりします。そして、そんな時、トラブルが起きても、最初の反応は自分の力に頼ろうとするのです。結局信仰が深みにどんどんハマってしまい、混沌とした状態になってしまいまあす。いざ神様に頼ろうと思っても、「頭では分かっているんだけど、心から神様を信頼出来ない」状態に陥ります。

士師記に出てくる者たちはそんなエントロピーに入ってしまったものたちなんです。でも、そもそもなんでそんなことになったんでしょうか。神様に導かれたモーセ、ヨシュアによってついに約束の地カナンに入ったのです。アブラハムに神様が約束した、イスラエルを通して全ての民が祝福される時が来たのです。

「忘れた」ことが一番の問題だと想わされました。

士師記の2章にありますが、神様のみわざを知らない世代が起こったのです。イスラエルの家庭で、そして街角では、「モーセって何者?とか、マナ?何その食べ物?別に困ったこと無いし、ここの土地はよく肥えていて、うまいものがよく取れる。この土地の風習にも馴染んできたし。」なんていう会話があったんじゃないか、なんて想像します。

結局そうして、神様が生活の中から追い出されてしまい、皆誰もが自分が良いと思うことを行った、という状態になって行ったのです。なんだか、現代社会のようではありませんか?

そんな姿があらゆる士師記の登場人物から読み取れるのです。私たちも神なき生活・文化の声がますます大きくなれば、士師記の頃のイスラエルと同じようになってしまいます。

牧師曰く、「なんと暗い書であろうか、しかし、一つ言えるのは、そこには間違いなく神様のあわれみと恵みが流れている。」そうです、神様は常にあわれみをかけてくれています。その恵みとあわれみを「知らない」「忘れた」状態であるなら、そこから脱出し、立ち直る一歩を踏み出すには、その神様のあわれみと恵みに「思いを潜め」「思い起こす」ことなんです。

さらに、そうするのに一番いい方法は神様に感謝を具体的に捧げる祈りの時間をきちんと持つことだと思います。

まさしく、月曜の朝の早天祈祷会でそうすることが出来ました。詩篇の105篇が読まれました。

1 主に感謝して、御名を呼び求めよ。そのみわざを国々の民の中に知らせよ。
2 主に歌え。主にほめ歌を歌え。そのすべての奇しいみわざに思いを潜めよ。
3 主の聖なる名を誇りとせよ。主を慕い求める者の心を喜ばせよ。
4 主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。
5 主が行われた奇しいみわざを思い起こせ。その奇蹟と御口のさばきとを。
6 主のしもべアブラハムのすえよ。主に選ばれた者、ヤコブの子らよ。
7 この方こそ、われらの神、主。そのさばきは全地にわたる。
8 主は、ご自分の契約をとこしえに覚えておられる。お命じになったみことばは千代にも及ぶ。
9 その契約はアブラハムと結んだもの、イサクへの誓い。
10 主はヤコブのためにそれをおきてとして立て、イスラエルに対する永遠の契約とされた。
11 そのとき主は仰せられた。「わたしはあなたがたの相続地としてあなたに、カナンの地を与える。」

詩篇105:1-11

早天祈祷会では個人的にも、小グループでも感謝を捧げる祈りをする時間を多く取りました。最初は思いつくことは限られていましたが、段々あれもこれも、と聖霊が思い出させてくれて、多くのことを具体的に神様に感謝することが出来たのです。

今、信仰がエントロピーを体験してしまっているなら、そしてエントロピーに入らないように、ぜひ今日、10分、20分と時間を取って、静かな場所に行き、神様に感謝の祈りを捧げてみませんか?心を神様に開いて、一つ一つ心に浮かぶことを感謝してみてはいかがでしょうか。

今年の歩みが、神様に捧げる感謝によって意味をなし、形づけられるような歩みの一年になりますように。