Legalistic remorse says, “I broke God’s rules,” while real repentance says, “I broke God’s heart.” Tim Keller
「律法主義的に生きる者は悔恨(かいこん)を持ち、『神の決まりを破ってしまった』と言うが、真に悔い改めの人生を送っている者は『神様の心を痛めてしまった』と言うのだ。」 ティム・ケラー
私は探偵物、刑事物、CSIや科捜研の女シリーズといった類の番組が大好きです。ちょっと現実離れしていてフィクション性が高く感じられるのですが、刺激があって好きです。 同様に、税関審査官や移民局の様子を描いたドキュメンタリーもYoutubeでよく見ます。中でも麻薬を海外から持ち込もうとした運び屋を察知して取り調べ、巧妙に隠された麻薬を差し押さえる場面はハラハラ・ドキドキです。担当官が良く使う機械の一つが麻薬検知装置です。綿棒のようなもので荷物や洋服からサンプルをこすり取ってこの検知器にかけるとたちどころに各種の麻薬を検知するというものです。
クリスチャンライフにも神様に向いているかどうかを検知してくれる機械があったら便利ですね(あるいは不都合かも)。先日読んだティム・ケラーのデボーションでそんなリトマス試験紙みたいな物があることが分かりました。それが冒頭の引用です。
ちょっと説明を加えないと分かりにくいですね。
私は躾の厳しい家庭に育ちました。親の基準を満たす「良い子」にしていることが大事なんだ、と育ちました。そんなバックグラウンドが、クリスチャンになる時の引き金でした。体面・世間体・人が自分をどう思うかが気になる、という本性でもがく自分に、イエス様が赦しを与え、豊かないのちを備えてくれたのです。かれこれ32年経ちますが、今でもこの本性というか聖書の言う罪が頭を持ち上げることがしばしばあります。
まさしくこの点を突いたのが冒頭の引用です。「律法主義的に生きる者は悔恨(かいこん)を持ち、『神の決まりを破ってしまった』と言うが、真に悔い改めの人生を送っている者は『神様の心を痛めてしまった』と言うのだ。」というものです。
英語の「remorse」という単語の意味をアルク英辞郎でチェックしたところ、「悔恨、自責の念、深い後悔、痛恨の念、良心の呵責」とありました。悔恨をウエブでチェックしてみると、「自分のしたことをくやみ残念に思うこと。 (大辞林)」「過去の言動に関して後悔したり反省したりすること。(実用日本語表現辞典)」などとありました。
ティム・ケラーの引用では二つの英単語、remorse (悔恨)と repentance (悔い改め)が対比されています。感情の面でどちらも深く自分の心に痛みを覚える、という意味では良く似ていると思います。また、概して言えば、特に自分ではそうですが、その後にとる行動だけを見ると、悔恨からの行動も悔い改めからの行動も、見極めがつきにくいです。例えば、聖書を読むとか、人に相談したり祈ってもらったり、するという行動などです。
でも大きな違いがあるのです。ティム・ケラーの引用の鋭い点は、どちらの態度を取っているのかは、失敗したときにまずどんな風にリアクションするかで分かる、という点です。まず自分がどこに目を向けているか、ということが悔恨と悔い改めでは天地ほどの(文字通り)違いがあるのです。「自分」に焦点をあててしまうと、どのように「自分」が努力し、「自分」を良くしていくか、と考え、神様のことですら(聖書を読んだり、祈ったりという行動すら)自分を向上させるという目的にとっての手段になってしまいます。神様を自分の道具扱いをするのは神様を神様として認めていないことなのです。
他方、「神様」に焦点をあてると、「神様」のみこころに沿った道を生きたい、と願うのです。神様が生きる目的になります。
イエス様の与える豊かないのちを生きているか、と検査したい時にはこのティム・ケラーの言葉を使えば自分がどっちの道を進んでいるかチェック出来るのです。私のデフォルトは「失敗や罪イコール基準に満たず」、と考えがちです。でもイエス様は「失敗や罪イコールわたしのこころを痛めたんだよ」と語ってくださいます。私たちに与えられている福音は、イエス様がそのような罪を背負って下さり、私達に赦しを与え、その復活の力、送ってくださった聖霊のはたらきによって新しく造られた者として生きる、そういう豊かないのちがある、ということです。