読む前の要点:

  • イエスキリストを神だと信じているのに、自分がクリスチャンだと言う感覚がないと感じた事はありますか? 何が足りていないのだと思いますか?
  • ルカの福音書19:1-10の中で、ザーカイが悔い改める事ができたのはなぜだと思いますか?

応答の扉

ザアカイは嫌われ者で、その理由は自分で充分解かっていました。人からお金を騙し取って大金持ちになっていたからです。ある日、ザアカイは自分の住むエリコという町にあの噂に聞いていたイエスが来ている事を知り、大騒ぎになっている大通りへイエスを一目見ようと出て行きました。あいにく彼は背が低く、人混みの向こうに居るイエスを見る事ができませんでした。そこで少し先にあった木に登り、イエスが来るのを待ったのです。イエスはその木まで来ると立ち止まって上を見上げ、初めて会う筈のザアカイに言います。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日はあなたの家に泊まる事にしてあるから。」この呼びかけに対してのザアカイの応答はこう書かれています。「ザアカイは急いで降りてきて、そして大喜びでイエスを迎えた。」その結果、ザアカイはそれまでの自分の罪を悔い改め、イエスから救いを受けたのです。

(ルカの福音書19:1-10)より

イエスの神性が特に浮き出ている聖書の話ではないでしょうか? この箇所から読み取れる事は、罪意識に悩んでいたザアカイをイエスは会う前からすでに知っておられ、その日あえて彼に会いに来られたと言う事です。悔い改める心の準備ができていたかの様なザアカイの応答(あの身分の大の大人が木に登ってイエスを探した位ですから)はイエスに喜ばれるものでした。しかし、仮に彼が木の上からイエスを見ているだけで返事さえもしなければ、ザアカイの救いは成立する事は無かったでしょう。人間は神の呼びかけに気付くだけではなく、それに応答する必要があるのです。ザアカイの様に応答をする時、人は神の子供とされると聖書は教えます。

「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神のこどもとされる特権をお与えになった。」    ヨハネの福音書1:10-12

この章では、ここで言う「この方を受け入れる」と言う事に関して考えます。

「クリスチャン」と言う言葉は「キリストの人=キリストに属する者」という意味で、神の子供として生まれ変わった人を指します。上の聖句はこの世に来られたイエスを受け入れた人は神の子供とされるのだと約束しています。

真理に対する対応

イエスの十字架は確かに西暦33年辺り* の出来事ですが、罪の赦しは時を越えて世界の初めから終わりの日まで、神を探り求めて生きる人々に与えられます。(使徒の働き17:26-27、エレミヤ書29:13)ただ十字架以後の時代に生ていると、救い主がハッキリと名前を持って聖書や歴史の中に登場し**、十字架での果てしない犠牲も記録されているので、救いはその人のハッキリとしたイエスにつき従う決断に掛かってきます***。神を知ろうと努力する時、どんな境遇に居ても神は不思議な形でその人達をイエスキリストに導いてくださるので、究極的に神との出会いはその人次第と言う形になっています。神を拒む事、中立の立場でいようとする事、そして神に興味を持たないでいる事さえも人は自分で選びます。しかし、健常な知能に恵まれていて、スタンスを持つ能力が与えられているのであれば、神を追究する事と真実に対する誠実な応答が要求されます**

*ルカの福音書2:1、3:23 その他にイエスが参加された毎年恒例の行事の回数から推測 ヨハネの福音書2章、6章、11章
**ヨハネの福音書14:6、使徒の働き4:12、他
***マタイの福音書12:30、マルコの福音書8:38、ルカの福音書12:38、48 ローマ人への手紙 1:19-21、

救い= 知る+信じる+応答する

救いは、修行や善行を重ねて得る事はできません。自分の力で罪を消す事も完全な人物になる事も人間にはできないのです。それだからこそ、神が十字架を持って救いを用意してくださいました。これは一方的な神からの憐れみで、イエスを神として受け入れる事だけが要求されます「受け入れる」と言う事は大きく分けて、福音を知る、信じる、応答するの三つのステップで成立します。知識上で聖書の話や教理を知ってるだけでも駄目であって、イエスを神だと信じるだけでも充分ではありません。自分からイエスを自分の神として呼び求める事が必要です。(エペソ人への手紙2:8 ,    ヤコブの手紙2:19、   第一コリント人への手紙1:2)

上の絵は、色々なバージョンがある様ですが、次のイエスキリストの言葉を元にして画かれています。

「見よ、私は戸の外に立ってたたく。だれでも私の声を聞いて戸を開けるなら、わたしは彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

ヨハネの黙示録3章20節

この箇所は、一人ひとりの心の扉の事を語っていて、「食事をする」と言うのは、深く交わる事を意味します。イエスはその人の人生に深く関わってくださるのです。この絵では、イエスは外側に立っていて心の扉をたたいておられますが、その扉は外側の取っ手が付いていません。それは、人が自分の意思でイエスを自分の人生に招き入れて、心の扉を内側から開ける事をしなければ、イエスはその人の心に無理矢理お入りにはならないと言う意味です、人がイエスキリストに心を開くとき、その人は神の家族の一員として生まれ変わり、聖霊がその人の内に宿ってくださいます。そして聖霊はその人の人生の中で、聖書に関する理解力や祈りを教えて下さったり、人生の決断を導くなど、あらゆる形で働いてくださいます。

応答の祈り

応答の祈りとしては具体的に次の様な要素が必要です。

  • 神への呼びかけ
  • 自分が罪人である事を認めて赦しを求める。
  • イエスの十字架での犠牲を感謝する。
  • イエスに自分の神として、自分の人生を司って下さる様に求める。

どんな言葉を使ってどんな形で祈るにしても、この内容を心から意図していれば、神は必ず聞いて下さいます。無論、一人で祈っても当然聞かれますが、自分の救いを喜んでくれるクリスチャンの人や牧師等に一緒に祈ってもらえれば、喜びは更に増します。ザアカイが急いで木から下りて来た時の様な喜びに溢れた純粋な応答は、天の御国に大きな歓声を巻き起こすものなのです*。

*(ルカの福音書15:10)

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