聖書には「義」という言葉が出てきます。「義」という言葉にどんな思いを持つでしょうか?とても到達出来ない水準でしょうか?へこんだ気持ちになりますか?
今教会ではイエスの山上の垂訓(マタイ 5 – 7 章)から日曜の説教が講解されています。先日は5章6節からでした。
「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。」
マタイ 5:6
義とは、そして義を求めている、と言うことはどう言うことでしょうか。
イエスはさらにこう語ります。
「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」
マタイ5:20
当時の律法学者やパリサイ人というのは神から与えられた律法をキチキチに守り通そうとしていたばかりか、少しでもおきてを破ってしまいそうな状況があれば罪を犯す可能性をことごとく低くするために追加の決まり事を施行していたのです。彼らほどきっちり守っていた者達はいませんでしたから、イエスの言葉を聞いていたもの達は、彼らの「義」を超えないとだめ、とイエスが言うのを聞いてがっくりしたのではないでしょうか。到底到達出来ないような義をどうやって追い求めたらいいのでしょうか?
山上の垂訓
義を追い求めるにあたっては、まず大事なのは義に到達しなければならない、という考えから脱する必要があります。マタイの5章から始まるイエスの山上の垂訓と呼ばれる説教は、私たちが神に受け入れられるために達成すべき基準値ではないのです。なぜなら、山上の垂訓は八つの「幸なるかな」と言う至福の教えから始まります。
モーセの十戒も同じように誤解されがちですが、到底達成できない決まりを与えて、神は人々がしくじりを犯し、それを罰するのを待っているんじゃないか、などと思い違いをするのです。神がまず人々をエジプトの奴隷から解放してくれたこと、神のその恵みがベースにあるのです。山上の垂訓では神が幸いなる人間の姿を説いてくれているのです。掟に沿った生き方をしたから幸い、というのではなく、神の恵みに沿って生きることが幸いといっていると思います。
義を理解する助け
神がまず恵みによってあなたに語ってくれている、これが枠組みです。神はあなたを神のスタンダードでその価値をはかろうとしているのではありません。またイエスは到底達成できない無理な教えを授けているのでもありません。イエスは神がどのようなお方かを説明してくれているのです。
カナダで牧師・教師をされている Darrell Johnson は山上の垂訓を講解している著書、The Beatitudes: Living in Sync with the Reign of God. Vancouver: Regent College Publishing, 2015. で「義とは正しい関係を持つこと」だと説いています。それは創世記から分かると言うのです。
- この地との関係
- 他者との関係
- 自分自身との関係
- 神との関係
正しい行いを積み重ねるのではありません。当時の律法学者やパリサイ人は行いから神を追い求めていたのですが、そうではなく、神様と正しい関係を築けることを追い求めるべきだったのです。それは飢え・渇いたもののように追い求めるのです。神を心から追い求めるのです。すると神は私たちを満たしてくれるのです。天地を造られた神は私たちが被造物と正しい関係を持つこと、三位一体の神が完全な交わりを持っているように人同士も関係を正しく持つこと、そして神の似姿に創造された自分のアイデンティティーを正しく理解し、キリストによって神との関係を正しく持つこと、これらを追い求めることが義を追い求めることです。
蛇足になりますが何年も前に中国人の宣教師の人が彼がよく使う会話の切り出し方の一つに、漢字を書いてみせることがある、と言っていました。日本語でも同じ漢字があるのできっと彼はシェアしてくれたんでしょう。それは、「義」と言う漢字でした。よく見ると、義の漢字は、「羊」と「我」で構成されています。羊が我の上にあるのです。イエスは子羊と言い表されています。イエスが自分の上におられることが義である、というのはへこむ気持ちではなく、平安を与えてくれるものでしょう。