先日上野の森美術館のゴッホ展に行ってきました。ゴッホに影響を与えたとされる他の画家の作品も交えて、ゴッホをその作品・作風から紹介していました。
私のいくつかお気に入りの作品も展示されており、混み合う中、何とかその絵の真ん前に立ってじっくり見ようとするのですが、目を凝らして見ている時に限って人が前を横切ったりするのです。「割り込み禁止!」って言いたくなるほどでした。
もう何十年も前になりますがシカゴ美術館を見学した時には、お気に入りの絵の前にクッションが置いてあり、そこに座ってずっと静かに見れたことを思い出し、あぁここではそうは行かないんだ、と思ったりしていました。
妨害されたり、割り込まれたりしたら腹が立ちます。イエスも妨害されたり、割り込まれたら激しく対応していたことが福音書に書かれています。もちろん、それは単に列に割り込まれた、というようなことに対してではありませんでしたが。イエスが激しい応対をしたそんな姿について、Pete Briscoeが彼の礼拝説教、「毎日をイエスとともに生きる」シリーズの中で、こう語っています。
「イエス様は2つの事に激しい目的意識を持っています。福音書の中に随時見受けられます。まず、困窮する者達に助けの手を伸べる事、そして罪にある者達に救いをもたらす事ですね。苦しむ人を助け、罪にあるものを救う、その恵みのみわざに対して障害物となりイエス様を妨げるものがあると、それらに対して、彼はどう猛さを見せるのです。人は怒りを示す時、その人にとって何が一番大切なのか、どんな価値感があるかが分かります。キリストにおいてもそれは同じなのです。
“Jesus is fiercely intentional about two things and we’ll see it all the way through the Gospels. He’s firstly intentional about helping people who are in need, and saving people who are in sin. And Jesus flashes his ferocity anytime anything impedes this mission of grace anytime there’s a roadblock that keeps him from helping people who are in need or from saving people who are in their sin. … When someone gets angry you can see what they value. You can see what’s important to them and this is certainly true of Christ.”
Pete Briscoe, Everyday Jesus
福音書を読むと、イエスは事あるごとにパリサイ派の者達に厳しくあたっているように見受けられます。まるで目の敵のようですが、それはパリサイ派であるから、という単純な図式ではありませんね。イエスは彼らの信じている対象についてではなく、彼らの行いが表層的で、人々を苦しめ、神から遠ざけてしまう言動を取っている事に対して厳しくあたっているのです。これは律法主義的な言動なのです。つまり、行いを究極的に突き詰めて行き、「達成出来ない=神に喜ばれない、」という方程式を他人に当てはめるのです。これは人々と神様の間にバリケードを立て、自分と人々の間に割り込んで来た、とイエスは見抜き、激しい言動に出るのです。
他にもイエスは、自分の負うべき十字架の道を妨げようとしたペテロに対し、「下がれ!サタン。」と語気荒く咎めたり、「父の家はあらゆる国民のための祈りの家であれ!」と、もともと異邦人のために備えられている、宮の中の祈りの広場を金稼ぎのための市場にしてしまった者達を縄で鞭を作り追い出した、というのが聖書に記されています。まさしく、「どう猛」な応対っぷりです。
イエスにとって、助け、救うというミッションは決して譲れない道何です。
このメッセージに想いを馳せたのは、多分ゴッホの展示会を見に行き、ゴッホのこと、ゴッホについて書かれたことを思い出したからだと思います。
ゴッホは一時期伝道者を目指し、貧しい炭鉱労働者達に福音を伝えることに燃えていました。財産を売り払い、自ら貧しく自己犠牲と神への奉仕の道を取り、みすぼらしい服でミッションに努めようとした彼と、教会とは対立する結果になりました。また皮肉にも、そんな彼の自己犠牲と奉仕の姿、そして貧しき中にもキリストの希望がある、というメッセージは、彼が手を差し伸べていた者達には伝わらず、彼の伝道者になるという夢は挫折しました。彼にも色々未熟さや落ち度もあったことでしょう。しかし、彼に取って「教会」は救い助けたいと願う人々と自分の間に立ちはだかる壁としての存在になったのです。彼の作品の中にそういう思いが多く見受けられます。
ゴッホの目は、貧しい農民達、平凡な暮らし、慎ましい生き方に向けられていました。私はそういう作品が好きです。どことなくペーソスが感じられ、共感共鳴出来るからです。ゴッホのペーソスに私は惹かれ、インスピレーションを受けます。
彼の有名な「星月夜」(このブログのタイトルグラフィックに使わせてもらいました)を見ると、明るく星が輝く夜、街の家々の窓から黄色い暖かい灯が見られます。しかし、中央にある教会は何と暗く、寒々しく表現されているではありませんか。ゴッホは、人々に希望を与えるのは「教会」という団体や「聖職者」という肩書きからではないんだ、と強調しているかのようです。
Skye Jethaniは 著作 “The Divine Commodity”の中でゴッホの「ジャガイモを食べる人々」についてこんな風に記しています。
「ジャガイモを食べる人々」はゴッホのお気に入りの作品の一つです。暗く、惨めに見えるシーンですが、ゴッホは、小作農民に存在意義や尊厳があることを描きたかったのでしょう。暗い中に希望があると描いたんです。テーブルの上には一つのロウソクの灯がありますが、その黄色い明かりが小作農達の顔を神の愛として照らしているのですから。
“The Potato Eaters was one of van Gogh’s favorite paintings. Despite the depressing and dreary scene, van Gogh wanted to portray the dignity he saw in the peasants’ existence. Within this dark composition Vincent painted hope. Above the table hangs a solitary lamp, its yellow flame illuminating the faces of the peasants with divine love.”
Skye Jethani, “The Divine Commodity”
ゴッホにとってはこの暖かみを与えるランプの灯は神様がその顔をこの貧しき者達に照らしている、と描きたかったのではないでしょうか。本当は、彼はそんな光をもたらす伝道者になりたかったんじゃないかなぁ、と思ったりします。彼の思い入れが伝わります。だからこそ、ゴッホはそんな貧しい者達と神様との間に立ちはだかる「教会」という組織に対して反感を持ち、幻滅を抱いていたのでしょう。
今日のクリスチャンは、私たちはどうしたらいいの、という質問が浮かびますね。
「律法主義的な言動」と「神様に従って歩む行動」は紙一重か、あるいは外側から見たら同じに見えるかもしれません。でも、今日の私たちにクリスチャンにとっては、何より自分の言動を吟味することが重要なのではないでしょうか。教会に来るある特定の人たちをカテゴリー化し、無意識に拒絶したりしていないでしょうか。自分の教会や関わっているプログラムに強く依存し、それについて来れない人たちに対して、ついてこれるようになったらまた来てね、とすげなく応対していないでしょうか。ハッと気づいたら、いかにもイエス様に怒られそうな宗教的な・律法的な足かせを人に押し付けていないでしょうか。
Pete Briscoe のいう、シンプルな2点、「人を助け、人を救う」イエスと、人々との間に立つバリケードを作ったり、壁になっていないでしょうか。
この見極めは確かに難しいです。イスラエルが他の国々から聖別されていたように、クリスチャンも聖別されるべきですから。でもその見極めはどうか聖霊に頼ってみてはいかがでしょうか。必ず聖霊が語ってくれます。私たちの役割は、自分の足りなさを認め、自分の力ではなく、聖霊の声に敏感になり、聖霊の励ましと力によって従うことが出来る様にされることでは、と想わされました。