読む前の要点:
- 入学式、結婚式、お葬式など、人間社会では、多くの儀式やしきたりがあります。「儀式」とは、どの様な役割があるのだと思いますか?
- 洗礼式には、どの様な意味があると思いますか?
- 聖餐式はどうですか?
洗礼式と聖餐式
洗礼式
イエスが天に昇られた後の話ですが、ピリポと言う名の弟子が神に導かれて、エチオピアからのあるの高官に出会います。ピリポはこの高官と一緒に馬車に乗りながらイエスの事を彼に伝え、彼はイエスを信じます。その時点で丁度その馬車は水のある場所に差し掛かったので、高官はこう言いました。
「ご覧なさい。ここに水があります。私がバプテスマ(洗礼)を受けるのに何かさしつかえがあるでしょうか?」
彼は自分の魂の救いを象徴する「洗礼」と言う物を当然の事として決心したのでした。こうしてピリポは高官にその場で洗礼を授けたのです。使徒の働き8:26-38に記されている話ですが、洗礼がどの様なものであるかを良く表した箇所です。
意味
洗礼と言うのは救われた証、すなわちイエスを自分の救い主として受け入れた証を表す儀式です。特に教会時代が始まった当時は信仰を持って直ちに洗礼を受けていた事が 「使徒の働き」を読むとよく分かります。* 忘れてはいけない事は、洗礼が救われる為のものではなく、救われた証として行われる印なのだと言う事です。
*使徒の働き 9:18、10:47-48
やり方
やり方は一般に三通りあります。 「浸礼 (しんれい)」と呼ばれるやり方は、受洗者が腰ぐらいまでくる水にはいります(洗礼を授ける司式者が一緒に入ることもあります)。多くの教会には洗礼槽と呼ばれる、一般のお風呂より三、四倍の大きさの桶が設置されてあります。教会に洗礼槽が無い場合は海、川、湖などで行われる事もあります。そこで、牧師先生が(大抵の場合、手を上げて)受洗者の名前を言ってから「父と子と聖霊の御名によってバプテスマ/洗礼を授ける」と言って、その人の体を全部水に沈め、直に引っ張り出すと言うものです。 二つ目は「滴礼 (てきれい)」と呼ばれるやり方で、牧師先生が少量の水、具体的には水滴を数える事ができるような量を受洗者の頭に振りかけます。そして、三つ目のやり方は「注礼(ちゅうれい)」と呼ばれるやり方で、これには水の量が敵礼よりも多く、頭に水を流す形で行われます。どちらも侵礼の場合と同じ様に、「父と子と聖霊の御名によってバプテスマ/洗礼を授ける」と言う事を言って行いますが、水を掛けるタイミングなどの細かい順序はやり方が色々とあるようです。尚、この三通りは、各教会や教団教派の洗礼(バプテスマ)の神学的理解によって使い分けられます。詳細は各教会の牧師先生に尋ねることをお勧めします。
なぜ受けるのか
なぜ受けるか、の理由は単純で、イエスが命じておられるからと言う事です。* イエスは彼を信じる者が人の前で彼を認める事を要求されています。** イエスを自分の神として受け入れると言う事は、都合の良い時だけの神ではなく***、「この方に従って生きたい」と願う事で、洗礼はその人がその決心をした事の証として人前で受けます。
*マタイ28:19 **ルカ9:23、*** マタイ7:21-23
受けない理由:
受ける理由は単純なものです。それよりも、受けない理由の方が問題ではないでしょうか?ここで忘れてはならない事は、神は全ての人の心をご存知だと言う事です。「受ける、受けない、受けられない」の裏にある、その人の心が一番の問題です。
もし、「自分は受けるに値しない。」としている理由なのであれば、もう一度、イエスの十字架 が何だったのかを学び直す必要があり、神の愛と十字架を、自分には適用できない、不完全なものとしていないか自分自身に問い正す必要があるでしょう。神の完全な愛は単純に心に受け入れる以外にどうする事もできないものなのです。単純に受け入れる事は聖霊が働いてくださってできるものなので、聖霊からの助けを祈る事ができます。
* 第一コリント12:3、ヨハネ15:26 等
「保護者からの許可がおりない」。未成年の方の中にはまだ神を知らない親が洗礼を許さない事もあるでしょう。その親を敬って、許可が下りるように祈りながら時を待つ事も神は認めてくださるでしょう。
「今更...」と言う状態になってしまった人も少なくありません。タイミングがついつい伸びてしまっていても、イエスに従う心があるなら、「受けないまま一生を終えたくないから」と言う事だけも正当な理由になります。
人の目を気にしてしまう事が理由であれば、もう一度自分の信仰の決心を見直す事が必要です。洗礼式を結婚式に例えるなら、誰も自分の事を恥ずかしがる相手とは結婚したくないですよね。
ルカ9:26
魂の救いは罪の悔い改め、赦された事への感謝、そして神を愛して生きて行く決断を必要とします。洗礼はそれの証とするもの、神が望まれているもの、命じておられるものなのであって、受ける理由はそう言った単純なものです。
マタイ28:19、使徒の働き2:38
幼児洗礼
ところで、「幼児洗礼」に付いてですが、それは文字通り、赤ん坊や小さな子供に洗礼が授けられるものです。まだ物心が付かない時期の場合はもちろん親の意思で行われます。親の「神に従って生きて欲しい」と言う願いからと言えます。もちろん本人の意思とは別なので、クリスチャンになった印と言うわけではなくなります。この論点のため、プロテスタントの多くの教会は、十字架の意味をしっかり理解した上で自分で決心した時のみに洗礼を授ける方針を取っています。なので、幼児洗礼を受けていても大抵の人には記憶にない出来事となるなので、後に自らの決心で再び受ける人も少なくありません。
献児式
幼児洗礼の他に「献児式」と言う行事があります。これは親が、子供の信仰の成長の支えとなって、神の前に精一杯の正しい育て方をする決心を神と会衆の前で表すものです。この際、対象となる子供の為に祝福の祈りなどが行われますが、子供の側の意向は関わりません。
聖餐式
「聖餐式」と言う言葉を知らなくても、一般に教会では「パンとぶどう酒」が出てくると知られているのではないでしょうか?聖餐式はもともと、「最後の晩餐」として知られている夜、つまり、イエスが次の日に十字架に掛かると知っておられた夜に、「私を覚えてこれをしなさい。」と命じられた式です。パンは、十字架で人類の為に犠牲になられたイエスの体を象徴し、ぶどう酒はそのイエスの血を象徴します。イエスはパンを裂きながら、「これはあなた方の為に裂かれた私の体です。私を覚えてこれを食べなさい。」と言って弟子達に分け与えられ、またその後、杯をもって「これはあなた方の為に流された私の血です。私を覚えてこれを飲みなさい。」と言ってそれを食卓に居る弟子達に廻されました。その最後の晩餐での小さな儀式が一番初めの聖餐式となったのです。聖餐式は十字架の深い意味を覚えながら受ける事が重要なのでハッキリと決心してクリスチャンになった上でのものです。なので、クリスチャンだと自覚している人が受けるもので、多くの教会では、洗礼を既に受けた人のみがあずかる事を許される制度になっています。
第一コリント11:26-29、マタイ26:26-28、 ルカ22:19-20
やり方
教会によって聖餐式のやり方も多少の違いもありますが、基本的には、小さなパン切れ(又はその代わりになる物)とぶどう酒(又はぶどうジュース)を使います。大半の場合は、始めに聖餐について語られている聖書の箇所や祈祷書が読み上げられます。次にパンを食べる時、牧師さんや神父さんが、それがその人の為に裂かれたイエスの体を意味する事を語ります。そして、受けた人はそれを食べます。その次にぶどう酒を飲みます。この時も、それがその人の為に流されたイエスの血である事が語られます。
意味
あの夜、翌日には人類の罪の報酬を十字架で身代わりとなって受ける事を知っておられたので、イエスは御自身の体を裂かれたパンで、流される血をぶどう酒で表されました。パンやぶどう酒は体に命を与えるものであるのと同じで、イエスが十字架で死なれる事が、彼を信じる者に永遠の命をもたらす事になる事をパンとぶどう酒を体に入れる事によって象徴されるシンボルなのです。
なぜ受けるのか
これもやはり、イエスがそう命じられたから受けるのです。聖餐を取る時、心をイエスの十字架に向け、手にしたパンやぶどう酒を通して自身の魂がイエスの犠牲によって救われた事を改めて深く実感し、感謝をする時間を持つ為のものです。
ヨハネ6:35、6:48-57、マタイ26:26-28
五感を通して
旧約聖書の中で神御自身がイスラエルの民に神を忘れない為に多くの儀式や慣わしを定められました。ところが教会時代が始まった現代、大半のプロテスタントの教会の間ではイエスキリストが教会に定められた儀式として、洗礼式と聖餐式の二つだけが行われています。その理由としては、旧約の時代に救い主を待っている事を象徴する儀式だったのが、イエスが救い主として来られた後はそれらを表す必要がなくなったからです。代わりに、救われた証と(洗礼式)救い主がしてくださった事を忘れない為の儀式(聖餐式)が定められたのです。
人間は霊で物を感じ取るよりも、五感で感じる事の方が遥かに得意なのではないでしょうか?神はそれをご存知であって、五感で神の愛と恵みを経験する事を通して、魂でも感じる事ができる様にされたのかも知れません。