おさらい 「イエスは誰か?」

ルカの9章も最後のセクションです。これまで9章で語られて来た、「イエスは誰か?」というルカの福音書のテーマの一つをおさらいしてみましょう。

  • 9:1-17 イエスは旧約聖書に預言されたメシア
    • イエスの読んだイザヤの書においての救い主は、貧しいものに良い知らせを伝え、心の傷ついたものを癒し、囚われ人を解放し、全ての悲しむものを慰め、喜びを与え、憂いの代わりに賛美をもたらし、義と栄光が体現される、と語ったのです。 
  • 9:18-27 豊ないのちにつながるイエス
    • イエスは十字架の道へと進んで行く時が近づいていることをご存知でした。そして、弟子達を同じ十字架の道へと誘っているのです。イエスに従ってついて行く事が「豊かないのち」につながることをイエスほど良く理解しているお方はなかったからです。
  • 9:28-36 父なる神の愛する子
    • イエスは誰か、父なる神がはっきりと語ったのです。「私の愛する子、選んだ子である」そして、ペテロが確信を持って伝えているように、それは聖書が預言者を通して語ってきた御子であり、救い主だったのです。
  • 9:37-45 十字架への道を進むイエス
    • イエスに与えられた使命はエルサレムに行き、世の罪を許すため、その全ての罪を背負い、十字架にかかることでした。ルカの4章でイエスが宣言した「救い主」の姿を全うするのです。
  • 9:46-50 神の御国を進めるイエス
    • イエスは決まった「プログラム」や自己啓発ステップを推奨している方ではありません。人間や文化がさまざまであるように、福音が広がり、繁栄するのは定められた人々だけを通して行われるものではありません。

いよいよイエスはエルサレムに向けて最後のそして最期を迎える旅路につくのです。ルカ 9:51-62を見ていきましょう


さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、ご自分の前に使いを出された。彼らは行って、サマリヤ人の町にはいり、イエスのために準備した。しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた。そして一行は別の村に行った。

さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」

ルカ9:51-62

イエスは宣教の本拠地ガリラヤ地方を旅立ち、進んで行きました。地図をご覧ください。地図の上の方にカペナウム、そして下の方にエルサレムがあります。カペナウムから南進して、サマリヤ地方に入って来ました。その後、東進し、ヨルダン川沿岸を南下していく、というルートです。当時のガリラヤ地方のユダヤ人達は毎年恒例のエルサレムで行われる各種の祭りにはこのルートを通って往復していたようです。

イエスはまず自分の前に使いを遣わしました。全て順調な滑り出し、と思えました。ところが、サマリヤ人の村で問題発生です。


https://www.jerusalem-mission.org/map
丸印は当ブログ筆者による

サマリヤ人とユダヤについて ー エルサレムをめぐって

日本語BibleStudyのサイトで連載中の「ヨハネ伝の学び」シリーズの 4:1-18で、イエスはサマリヤの女と語らうシーンについて学んでいます。そのページから転載しました。リンクはこちらです。

サマリヤの歴史背景  

そんな訳で、イエス一行はガリラヤ地方への途につきます。その途中にサマリヤと言う名の地方があります。ガリラヤ地方にはこのサマリヤを通るのが一番の近道だったようですが、イスラエルの人々は一般的にサマリヤを通る事を避けていました。 それには、歴史上の事情があり、Ⅱ列王紀17章で読む事ができます。あらすじとしてはこうです。 サマリヤもイスラエルの一部でしたが、ある時そこに住む人たちがアッシリア帝国の手にかかり、捕虜として周囲の国々に散らばされてしまいます。そして、アッシリアの王はサマリヤの土地が荒地に変わらない様にと周囲の国々から人を移民させます。そこに住むようになった人々は当然、残りのイスラエル人にとっては「異邦人」であり、数多くの偶像を持ち込み、イスラエルの神に関しても習いましたが、その他の偶像も一緒に拝むと言う慣しをもった民となってしまいました。イエスの時代になった頃には、イスラエル人との間の混血の民衆になっていたらしく、相変わらす入り混じった教えをもっていて、残りのイスラエル人にとってはサマリヤの人たちは関わってはならない存在でした。それ故に、一般のイスラエル人とサマリヤ人は不仲な間柄だったのです。 

日本語BibleStudy.com/john4-1

今回イエスと弟子達はガリラヤからエルサレムへ向けて旅立っていました。(ヨハネの福音書の時とは逆のコースです)

前掲の説明の通り、サマリヤ人とユダヤ人は仲が良くありませんでした。しかし、先発隊の弟子達は宿の手配もして、無事にイエスは到着しました。普通なら大騒ぎも起きなかったでしょうし、以前にサマリヤの街でも癒やしが行われ、イエスを追い出そうという気持ちではなかったことでしょう。しかし、イエスのある行動によって、全てひっくり返ってしまったのです。

「イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。」という聖書の言葉から、イエスはサマリヤでの滞在はストップオーバーであって、サマリヤで大集会をするのではないということです。もともと仲違いしていた理由である「礼拝」において、イエスはサマリヤ人の礼拝を退け、エルサレムに焦点をあて、最大の優先順位としていたからです。これがサマリヤ人には気に食わなかったということです。


滅しましょうか?

いかにも雷の子、というあだ名のついていた兄弟、ヤコブとヨハネらしい発言です。旧約聖書・列王記第二の1章にはこのサマリヤで、預言者エリヤが天からの炎を呼ぶシーンがあります。ヤコブとヨハネ兄弟たちはこの記事を思ってイエスに呼びかけたのでしょうか?しかしイエスはそんな彼らを戒めたのです。イエスはエルサレムに赴いて十字架にかかる、その道のりを歩んでいたからです。やはり弟子達にはイエスの本心はなかなか理解できていなかったようですね。

後にイエスは復活され、昇天される際、弟子達にこう語りました。

「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

その言葉の通り、弟子達は福音をサマリヤの村々で語りました。

「このようにして、使徒たちはおごそかにあかしをし、また主のことばを語って後、エルサレムへの帰途につき、サマリヤ人の多くの村でも福音を宣べ伝えた。」(使徒8:25)


「私はどこにでもついて参ります。(多分?)」

イエスの「わたしについて来なさい。」という招きはとてもシンプルです。資格も必要なく、年令制限もないようです。男女も関係ありません。実際多くの女性達がイエスに従って歩んでいました。

イエスからの警告は、「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません」という一言でした。イエスもまたエルサレムで待つ十字架へと進んでいるからです。イエスは、この先どうなるか分からない。でも私について来るというならそうしなさい。他のことは全て優先順位がなくなります、と語っています。

イエスに従う、ということはある意味とてもシンプルです。行こう、と言われれば行くのですし、止まれ、と言われれば止まるのです。Eugene Peterson はPraying the Message of Jesus の6月12日のディボーショナルでこう書いています。

Simple obedience is a marvelous act: When we do what Jesus tells us to do, everything falls into place, and things work out. Why do we think we have to improve on his commands or edit his instructions? 単純に従うことほど素晴らしい行動はありません。イエスが命ずることを実行するなら、物事は落ち着くところに落ち着き、うまく行くのです。では、なぜ私たちはイエスの命令を改善しようとしたり指示の内容を改変しようとしないといけない、などと考えてしまうのでしょうか?

Eugene Peterson, Praying the Message of Jesus, June 12

私の通う教会の牧師達はよく、「信仰において色々悩むことの大抵の根底には神様は本当に信頼出来る方だろうか?神様は本当に善き方なのだろうか、という質問に答えられないからです」と言います。聖書は神は善き方であり、信頼出来るお方だと語ります。イエスは、「だから私について来なさい」と呼びかけて下さっているのです。