1 イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。 2 主人は、彼を呼んで言った。『おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。』3 管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、物ごいをするのは恥ずかしいし。4 ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。』5 そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか』と言うと、6 その人は、『油百バテ』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい』と言った。7 それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか』と言うと、『小麦百コル』と言った。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい』と言った。8 この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくなったのをほめた。9 そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。

ルカ16:1-9

不正な管理人のたとえ

パッと読むと、イエスは不正を働き、ずる賢い奴らの行動を容認しているどころか、それを勧めているように読み取れます。どう考えるべきでしょうか?この箇所を読む時にはこれはたとえ話であることをわきまえることです。イエスはここで金銭を扱う上での道義的な行動について語っているというより、あるいは金銭を用いる上での行動規範について、もっと言えば、「不正資金で」友達を買え、と語っているのでもありません。このような解釈は聖書の他の真理と相反していますから。

ではたとえはどのようにとらえるべきでしょうか?登場人物を見てみましょう。

「金持ちの主人」は神を指します。「管理人」はイスラエルを指します。イスラエルは神の全ての所有物について、「光の子ら」として、それを管理する役割を与えられているのです。

NT Wright はこう解釈しています。

「このたとえ話において、イエスはイスラエルが危機に瀕しているとするなら、解決策は思い切った行動を取ること、パリサイ人達が幾重にも積み重ねている掟を気にせず、出来る限り、見つけられる限り味方をつくることだ、と示しています。「この世の子ら」ならそうするのです。「光の子ら、すなわちイスラエルの民は同じようにするべきです。この世のずる賢い者達から学び、自分の世代に降りかかってくる危機に対応する術を学ぶのです。”Jesus, in this parable, indicates that if Israel is facing a major crisis the answer is rather to throw caution to the winds, to forget the extra bits and pieces of law which the Pharisees have heaped up, and to make friends as and where they can. That’s what ‘the children of this world’ would do, and ‘the children of light’ – that is, the Israelites – ought to do so as well, learning from the cunning people of the world how to cope in the crisis that was coming upon their generation.” 」

Luke for Everyone, N.T. Wright

これは現代の教会にはどう当てはまるでしょうか?NT Wright は続けてこう説明します。

「私たちがお互いに押し付けようとする、教会においてすら福音の上に重ねて追加する規則にはあまり囚われないようにするべきだ、と教えられます。教会は今日、荒々しい波の上を進んでいるようです。福音を考える時、何が大事なことで何が大事ではないか常に探り極めねばなりません。二十世紀においてはいわゆる主流派教会、伝統的な教派ですが、それが世界の様々な地において衰退しています。対して、新しい教会が、第三世界においても、成長し広がっています。伝統的な教会が自分達の限界に面した時、どうするべきでしょうか。型破りな考え方をして、伝統という障壁を乗り越え、新しい友人達を作る用意をするべきなのではないでしょうか。思い切った行動をとって、福音における交わりにおいて、新しい福音の住処を見つけることが出来るように学ぶべきではないでしょうか。”… it advises us to sit light to the extra regulations which we impose on one another, not least in the church, which are over and above the gospel itself. The church passes through turbulent times, and frequently needs to reassess what matters and what doesn’t. The twentieth century saw the so-called ‘mainline’ churches in many parts of the world – the traditional denominations – in decline,
with newer churches, not least in the Third World, growing and spreading. What should traditional churches do when faced with their own mortality? Perhaps they should learn to think unconventionally, to be prepared to make new friends across traditional barriers, to throw caution to the winds and discover again, in the true fellowship of the gospel, a home that will last.” 」

Luke for Everyone, N.T. Wright