ルカは、7章でイエスの神の愛ーへセドと、それに関わる人々のことを次の6つのセクションにおいて記していると思います。イエスに触れられたものたちは造り変えられたのです。
- v1-10 異邦人・ローマ兵士(敵)strong sense of authority and obedience – faith
- vv11-17 未亡人で息子を無くした母(死)restore life to both mother and son, life flows from Jesus, not the other way around
- vv18-23 バプテスマのヨハネ(イスラエル)confused about Saviour
- vv 24-35 世の人々 (世俗)hear what they only want. Means to an end, Jesus plus
- Vv36-50シモン(宗教家)religious only sees people as labels
- vv36-50 売春婦(罪人)sought mercy, knowing undeserving
前回の学びで、「小さき者」がバプテスマのヨハネの悔い改めの説教に対し、心を開き、受け入れていたことを見ました。宗教的に高い地位にいたものたちに拒絶されていた「罪人」や社会周辺に追いやられていたものたちだったのです。「小さき者」達が、イエスの「敵を愛せよ」という言葉を聞き、生まれて初めて自分が「敵」だったのに、神は全てをかけて自分を愛してくれている、と心で受けとめたのです。
今回はまさにその「小さきもの」の代表、売春婦の女と、宗教家の代表、パリサイ人シモンの二人に焦点を合わせていきます。
ルカ7章36-50節
36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。37 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏のつぼを持って来て、38 泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。39 イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから」と心ひそかに思っていた。40 するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生。お話しください」と言った。41 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。42 彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」43 シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています」と言われた。44 そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。45 あなたは、口づけをしてくれなかったが、この女は、わたしが入って来たときから足に口づけしてやめませんでした。46 あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。47 だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけいに愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」48 そして女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」50 しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」
セッティング
パリサイ人シモンがイエスを食事に招き、ゲストが食事をしているところに、一人の罪深い女が現れます。彼女はバプテスマのヨハネのメッセージを聞いたのか、イエスの説教や行動を知っていてそこに来たのかは書かれていないので分かりません。当時は食事を横に寝そべりながら食べる方式で、イエス達も寝そべりながら食卓についていました。足は横に伸ばしてあったのです。その足元にこの女が立ち、涙でイエスの足を濡らし、髪の毛で拭き、香油を塗ったのでした。
シモンの見たもの
実はシモンは霊的に言えば盲人でした。目が見えていなかったのです。(マイケルカード)シモンがイエスの後ろに立った女を見た時、彼の目に映ったのは人物ではなく、神学的、社会的な階層だったのです。「罪人」というレッテルのついた人でした。ですから、彼にとっては掟破りの行動しか目に映らなかったのです。規則に違反した行動をとっている、と見ていたのです。女性は髪の毛を隠すのが決まりなのに、髪を垂らし、夫以外の男性に見せるなんて、まるで裸を見せているようだ、と糾弾したのです。
シモンがイエスを見た時も彼には人物は見えませんでした。階層・カテゴリとして、「預言者」と決めてかかっていたのです。ですから、「預言者のくせにこの女が何者かわからないのか」とすでに見下し、ダメな奴、と切り捨てたのです。
女の見たもの
この女性の素性ははっきりしていません。しかしルカの記述からわかるのは彼女が深くその罪を悔い、イエスが救いを与えてくれる、と分かっていた事でしょう。バプテスマのヨハネのメッセージや、イエスの言葉を聞いて、心を打たれたのです。そのイエスが現れた、という事で、ものおじせず、貯めたお金をはたいて高価な香油を持って来たのです。当時の建物はオープンで、招待客以外でも家の中に入れたようです。
ヨハネによる福音書にイエスが弟子達の足を洗う場面が出て来ます。そこからも分かるのは、家に入り、食事をする際に、その家のしもべが招待客の足を洗うのが慣しだそうです。埃まみれの足を洗って、横に寝そべり食卓につくのです。この女性はイエスの後ろにたち、その足が埃まみれだったのを見た事でしょう。救い主にしもべとして仕え、涙で足を濡らし、夫にしか見せないはずの大事な髪の毛で足を拭き、香油を塗ったのです。彼女は主をこうして礼拝したのです。
イエスのへセドの行動
神の愛は受けるに値しない者に神であるがゆえに、神と人との関係があるがゆえに無償で、惜しみなく与えられるのです。そして必ずそれは行動で示されます。イエスのへセドの行動はシモンに対しても、女性に対しても示されました。
イエスは女性にイエスに対しての信仰によって救いが与えられた、と宣告されました。当時の「普通の」人からみて、いかがわしい、罪深い、忌み嫌われるべき女、とレッテルを貼られるような女性でしたが、イエスは彼女のイエスに対する信仰により救いを与えたのです。
シモンに対してもへセドは示されました。彼の狭い了見を追求したり、招待客であるイエスに何ももてなしをしないことを咎めたりしませんでした。彼の見えない霊の目を開くチャンスを彼に与えたのです。
ルカの細かい記述を見ると、「女の方を見てシモンに言われた」とあります。イエスが語っている相手はシモンですが、イエスは女性の方を見て話しているのです。シモンに女性を見て、そこに人間を見なさい、と促しているのです。レッテルではなく、そこにいる人物に目を向けるようにです。全ての人間は神がその似姿に創造されたのです。
「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」
創世記1:27
「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」
詩篇139:13-16
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
イザヤ43:4a
私たちに望まれていること
イマジネーションを働かせてください。このストーリーに飛び込んでみてください。食卓について、女がイエスの足を洗い、香油を塗ります。シモンの切り裂くような糾弾の声が聞こえて来ます。あなたは何を感じ、考えるでしょうか?イエスのたとえ話に耳を傾け、どんなことが心に浮かびますか?女性のように罪を暴かれ、心を砕かれ、イエスに助けを乞い、出来うる限り以上のもてなしでイエスを礼拝するでしょうか?それともシモンのようにレッテルに目を奪われ、宗教的な正しさの陰に隠れて自分は罪もなく大丈夫、と眩んだ、見えない目のままでしょうか?イエスの話によって自分の本性を見抜かれ、自分は本当は罪にまみれた女性と同じにイエスの前に許しを乞うしかないと気づかされますか?
イエスの用いるたとえ話はシンプルですが、頭で分かっている事が、心の奥まで届くような力があります。あるいは取り繕っている状態から開放されて本当に素直にイエスの前に立つ事が出来るようにしてくれます。
「ルカの記述から読み取れるのは、イエスに出会い、神様の赦しに気が付くことが本当の信仰に至る、ということなのです。愛がある、ということが、この信仰の証拠であり、信仰の現れに他なりません。(NTライト)」
N. T. Wright, “Luke for Everyone”