「想うこと」のブログを始めてすでに3年以上が経ちました。「想うこと」は常に、自分が感じさせられたこと、思い起こさせられたこと、をシェアする場所ととして来ました。振り返るとシェアしたことばや御言葉に恵まれ、態度を改めさせられることも多かったです。「想うこと」が、情報や知識をまし加えることで終わるのではなく、心に届いて、信仰が強められ、行動・生き方にインパクトを与えるようになるのを望みます。それには、自分がまず新くされることを願い求めるべきだと感じています。シェアすることばや考えが神様によって読む方の人生を造り変え、より満ちたものとなりますように!
さて、そんな風に考えさせられたのは、教会の日曜礼拝での説教によってです。牧師はソロモンについて語りました。何と世界中から憧れられた、知恵に満ちたソロモンだったのに、晩年信仰がひどく荒廃していったのです。神様から、「あなたに何を与えようか。願え。」(列王記第一3:5b)と言われたソロモンは、「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。」と知恵を授かるように願ったのです。何とへりくだった信仰だったことでしょう。
そんなソロモンの堕落は段階を追ってじわじわと進んだのです。礼拝で、牧師はソロモンが5つ方法で誤った道へと、道を踏み外したことを語りました。その中でも自分が想わされたのは、ソロモンは「心」を守るのを怠ったという点です。
頭で分かっていても、きちんと整理整頓された考えを持っていても、心が守られていなければ、様々な悪が心に入り込みます。ソロモン自身が書いた(皮肉ですが)」箴言の一節にこう書いてあります。
自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ。
箴言25:28
当時の町は城壁によって入るもの、出るものを制御していました。同様に、私たちの心も城壁がないと何でもかんでもOKだったり、見境なく心を吐露してしまうことになります。それは愚かなのです。
生活の中で、様々な雑音や自分の興味を惹くもの、誘惑するものがあります。それを何のフィルターも無しに取り込むのは危険です。心に何が入るか、気をつけるべきです。
また、第二に、せっかく素晴らしいことを学んでも、頭で分かっただけでは何にもなりません。心に響く名言をいくつ聞いても、それが心を揺り動かし、人となりを変え、行動に現れねば虚しい知識のままです。心に届くかどうかが大事です。
James K. A. Smith は”Desiring the Kingdom” という著書の中で、元来キリスト教の教育の目的は人をキリストの似姿に育てていくものであったのに、現代文化に感化されて、結局「クリスチャン的世界観 (“Christian Worldview”)」ということばで表されてしまうような、「キリスト教の考え方を分散・伝達する」教育体系になってしまった、と語ります。 (“dissemination and communication of Christan ideas… (“Desiring the Kingdom”))
彼は、知識偏重の教育のせいで、「キリスト教信仰がその深さを失い、信奉する教理、原理、主張、案件などを取りまとめたものとして、おおむね集約されてしまった」と嘆きます。(“It reduces Christian faith primarily to a set of ideas, principles, claims, and propositions that are known and believed.” ibid)
彼は、忘れてはならないのは、「キリストの弟子である、ということは、正しい考え方や信念を頭に叩き込んで常にきちんとした行動を取れるようにする、ということが第一義ではない。そうではなく、弟子であるということは、正しく愛することができるものになることである。神を愛し、隣人を愛し、そのまず最初の愛によって突き動かされ、世の中と向き合うのが弟子たる意義なのだ。」と語ります。(“Being a disciple of Jesus is not primarily a matter of getting the right ideas and doctrines and beliefs into your head in order to guarantee proper behavior; rather, it’s a matter of being the kind of person who loves rightly—who loves God and neighbor and is oriented to the world by the primacy of that love.” ibid)
心に何が入っていくか、心に御言葉が届くようにすること、そしてそこから生まれてくる変えられた人生、それが鍵なんだ、と想わされました。このことは、聖霊の働きなしには不可能です。しかし、それを望み、求めることは自分に任されているのです。